BBC News

2019年10月16日

»著者プロフィール

ジェイムズ・ノーティー、BBCラジオ4「トゥデイ」

イギリスのスパイ小説の名手で、かつてはMI6(イギリス情報部)のスパイだったジョン・ル・カレ氏は、最新作の発表を前にBBCに対して、世界の要人について語り、そしてなぜ「人間のまっとうさ」が最後には勝たなくてはならないかを語った。

偶然の出会いがきっかけだ。よりによって、バドミントン・クラブで。ほんの短い会話。それでも、何かがつながった。混迷を極める今の政界に動揺するナットは、そうと気づかないうちに謀略の網を自分の手で紡ぎだしていた。いつかは捕まると知りながら。スパイ。忠誠。裏切り。これぞ、ジョン・ル・カレの世界だ。

最新作「Agent Running in the Field」(「野を走るエージェント」の意味)は、ル・カレ氏にとって25作目の小説だ。発売翌日に88歳になるル・カレ氏は、これまで長いこと「愛国心」とは何かを見つめ続けてきた。そのこだわりは年を経るごとに薄れるどころか、ますます鮮明になってきた。この小説はブレグジット(イギリスの欧州連合離脱)に関する粗雑な物語ではない。しかし、全編を通じて容赦なく、この国がどういう国で、この混乱によって今後どういう国になり得るのか、さりげなく、かつ執拗(しつよう)に問い続けている。

私たちは夏に、時間をかけてじっくり話をした。「今の時点でこの国にいて、国の状態について何も言わずに何かを書くのは不可能だ。私たちはその一部なのだから。私もその一部なのだから」と、ル・カレ氏は言った。

「今の状況に私は落ち込んでいる。恥ずかしいことだと思っている。その気持ちは、本の中身からも伝わると思う」

けれどもこの小説は、現在についてだけでなく、過去についても語っている。そして、「娯楽を提供するのが本の目的だ。それができていると思う。私は物語を語る人間、ストーリーテラーなので」と作者は言う。

MI6で働きながら出世作となる小説を書いた当時のことも、取材中の話題に上った。

「『寒い国から帰ってきたスパイ』のころと一緒だ。当時と同じように、個人としての義務の一方で、国家への義務、社会や社会を表す組織に対してどういう恩義があるかという、その両方の対立が今も課題になっている」

個人としての義務と社会への義務。この対立について50年以上にわたり繰り返し、あらゆる形で書き続けてきたル・カレ氏にとって、このテーマは時とともにますます不穏なものになってきた。冷戦時代はむしろ、奇妙に単純だった。冷戦では対立する双方が、相手が何者かを承知していたので。しかし、冷戦後の対立ははるかに分かりにくく、様々な忠誠心が錯綜している。ル・カレ氏のような作家にとっては、自分が書いてきた内容を現実世界が裏づけてしまったことになる。しかも、実につらい形で。

ル・カレ作品は、あえて難問を問いかける。「もしMI6が、偶然にしろ狙ったことにしろ、トランプがロシアで本当にひどいことをやらかしていたと、絶対的に否定のしようがない証拠を手にしたとする。その情報を、MI6はどうするだろう? そして、ついでに言えば、この国の首脳陣はどうするだろう?」。

最新作の構成は、これまでの数々の傑作と同じように実に緻密だ。そしてその精緻な構造の背景には、不安が潜んでいる。そういう難しい状況でMI6は、イギリス政府はどうするだろう? その問いかけへの答えが、もう以前とは違うのではないか。そういう不安だ。

ル・カレ氏は今作でも相変わらず、ページの上から飛び出すような素晴らしいフレーズをいくつも書いている。たとえば、ロシアとアメリカの大統領が会談する場面では、プーチンが「看守のような笑顔を浮かべる」のだ。

ル・カレ氏と話をすると、いつも元気が出る。勢いよくエネルギーを振りまく人なのだ。周囲を観察し、うわさ話に耳を傾け、人間というものに果てしなく興味をもち、そして怒りを抱え続けることから、その活力を得ている。長いこと話していると毎回、爆笑もののエピソードが次々と出てくる。雄弁家よろしく、面白い話を楽しんで披露するのだが、それと同時に、その話には常に喪失と憂鬱の影が落ちる。

私たちは、ジョージ・スマイリーの話をした。ル・カレ作品の中でも特に有名な、偉大な登場人物だ。前作「スパイたちの遺産」の終盤にカメオ出演したスマイリーは、自分が守っていたはずの「欧州」という文化の分裂を憂いていた。私たちはさらに、スマイリーの同僚のピーター・グイラムの話もした。グイラムも前作で、自分の信念の一部を失ってしまう。

「2人とも、イギリスを外から眺めていた。2人とも、人生の大部分を捧げて、大義のためにスパイとして活動した。その2人が今になってあの本で、不安に思っている。そしてこの本でも登場人物たちは、同じように不安に思っている。自分が正しい大義のために人生を捧げてきたのか、そしてその大義はまだ存在するのか」

最新作に流れる、切羽詰ったエネルギーの理由がそれで分かる。作者自身が、その懊悩(おうのう)を抱いているからだ。10代でドイツとドイツ語とその文化を愛するようになった作者は、欧州について、自分も思い悩んでいて、ドイツについて考えるのを止められないのだ。

あらすじをばらしたりはしないが、この本は、人がまっとうである(decency)とはどういうことかを描いている。そう思うと、私は作者に伝えた。

「おかしなことに、その言葉は最近は、英語よりもドイツ語でよく使われるようになった」と、ル・カレ氏は答えた。

「実はそれは、ドイツ文化に深く根ざす考え方で、中世の物語にも登場する。登場人物が最後にたどりつく人生の秘密で、それまでに生きることで中庸とまっとうさを学び、まともな人間にならなくてはならない。そして面白いことに、私のどの本でも、私自身は実生活でまともでないとしても、主人公たちはまともな人間になる。それが、悲しい真実の裏にある、何かを求める気持ちなんだ」

「まっとうになろうと希求する気持ち。そこには一種のロマンチシズムがある」

ル・カレ氏は、自分がいかに国を愛しているかを語り、偏狭な国家主義だと思う風潮にいかに絶望しているかを語った。「国家主義は愛国主義とはかなり違う。国家主義には、敵が必要だ」。

「私」の忠誠に伴う責任と「公」の義務のバランスを進んで描き続けてきた作者が、今の政治の様子に苦悩しつつ注目してしまうのは、当然のことかもしれない。今の状況は、ル・カレ氏がずっと書き続けてきたテーマそのものなのだから。

「郷愁の何が本当に怖いかというと、政治の武器になってしまったところだ。政治家たちは、一度も存在したことのないイングランドへの郷愁を作り出している。そして、ありもしないそんな過去のイングランドに戻れるのだと、売り込んでいる」

ル・カレ氏は政治家を軽蔑してきたし、その思いは年々強まっている。

「政治家はカオスが大好きだ。そんなわけはないなどと、決して思ってはならない。世情の混乱は政治家に権威を与えるし、権力を与える。混沌を背景に、政治家は存在感を示すことが出来る。自分こそが国民の皆さんのために、この状態を直しますよと言えるようになる」

今の英政界では右派も左派も教条的な絶対主義に陥り、片やリバタリアン主義、片やレーニン主義を掲げていると、ル・カレ氏は絶望している。しかも、右も左も目的は一緒で、どちらもカオスのあとの仕切り直しを目指しているのだと。

私たちはやがて、再び作者の最新作の話に戻る。そのテーマは、ル・カレ作品に一貫して流れ続ける、臆することのないロマンチックなものだと。

「それはスマイリーのテーマだ。これほど混乱して、これほどのうそが飛び交い、これほどのごまかしや歴史の書き直しが横行する世の中にあって、それでも人間がまっとうであることは、生き延びなくてはならないので」

「Agent Running in the Field」は10月17日、ペンギンブックスより刊行。

(英語記事 John le Carré: 'Politicians love chaos - it gives them authority'

提供元:https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-50043059

関連記事

新着記事

»もっと見る