2024年4月17日(水)

WEDGE REPORT

2020年11月26日

 2012年は周庭と習近平にとって決定的な年だったと言えるだろう。

民主活動家・周庭氏。11月23日、香港で公判が開かれ収監された。量刑は自身の誕生日前日である、12月2日に言い渡される(AFP/AFLO)

 その年、当時15歳の高校生だった周庭は香港の社会運動にデビューし、反国民教育運動の重要なメンバーになった。これは「徳育と国民教育」の教科の導入に反対し、中国共産党による愛国主義の注入と洗脳に抵抗する団体「学民思潮」が主導した中高生中心の運動である。周庭は後に「学民の女神」になった。

 同じ頃、習近平は中国共産党の最高権力者へと昇りつめようとしていたが、周庭や反国民教育運動のことは視野には入っていなかっただろう。彼は、江沢民、共青団、薄熙来・周永康グループの少なくとも三つの党内の派閥から軽視されると同時に、挑戦されてもいた。すべての段階を正しく踏まなければ、それまでの努力が水泡に帰すことになる。政治闘争に精通していた習近平は幸運にも恵まれ、その年の11月に開催された中国共産党第18回全国代表大会で共産党の権力における最高位を獲得した。

 就任したばかりの習近平は、前任者を超えるという大きな野心をまだ明らかにしていなかったが、その後、「反腐敗」(汚職対策)キャンペーンを開始し、チャイナ・ウォッチャーらを驚かせるとともに、権力基盤を強固にした。同時に習近平は、イデオロギーの分野で反撃を開始して左に旋回し、文化大革命のような特徴を備えた国家による政治的教化と統制を復活させた。13年春、共産党は「9号文件」という秘密文書を幹部に配布した。そこには人権などの普遍的価値・司法の独立・報道の自由・市民社会・特権資産階級・中国共産党の歴史的過ち・改革開放政策への疑いの七つの項目について、話してはならないという内容が記されていた。その影響は社会全体に広がり、当然香港にも及んだ。

 14年の雨傘運動以前は、中国本土の政治情勢がどれほど耐え難いものであっても、香港の人々は強い信念を持っていた。だが、普通選挙の導入を求める雨傘運動の失敗によって、この信念は揺らいだ。香港の人々は、習近平政治の下で、より大きな民主的権利のために戦う望みはほとんどないと認識した。中国が香港のようになるのではなく、香港がますます中国のようになりかねないのだ。

 周庭は、学校を休んでまで雨傘運動に参加した。運動で挫折を経験した後、彼女は羅冠聡、黄之鋒らと「香港衆志」を設立し、活動を続けた。それ以来、香港の民主化運動は防衛戦の様相が強まっている。香港の自由、法の支配、市民社会を擁護する、すなわち、香港の政治的・文化的アイデンティティを守ることに力を注いでいる。

 習近平は、最後まで政治的抑圧を続けることを決意している。雨傘運動を封じ込めたという成功体験は、間違いなく習近平の政治的圧迫を促した。15年7月の「709事件」(300人以上とも言われる人権派弁護士や活動家を一斉に取り締まった事件)で市民社会への弾圧を開始し、政治の空気を極限まで引き締め、インターネットの言論空間を厳しく制御し、国民全体を究極のレベルまで監視するようになった。そして習近平は、毛沢東に匹敵する「偉大な指導者」となろうとして、国家主席の終身制を復活させた。


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