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2022年9月9日

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8日に死去した英女王エリザベス2世の長い治世は、王位と国民に人生を捧げるというその強い義務感と決意が結実したものだった(文中敬称略)。

イギリスの影響力が低下し、社会が様変わりし、王室の役割そのものが疑問視される中、女王は多くの人にとって、急速に変化する世界の中で唯一変わらない定点のような存在だった。

しかし、女王が生まれた時には彼女が王位に就くとは、だれにも予想できなかったはずだ。それだけに、激動の時代の中で君主制を維持したその功績はとりわけ目覚ましい。


エリザベス・アレクサンドラ・メアリー・ウィンザーは1926年4月21日、ジョージ5世の次男ヨーク公アルバート王子と、エリザベス・ボーズ=ライオン夫人の第1子としてロンドンのバークリー・スクエアにある邸宅で生まれた。

エリザベス王女と、1930年に生まれた妹のマーガレット王女は、共に自宅で教育を受け、家族の愛情をふんだんに受けて育った。エリザベスは特に父ヨーク公と祖父の国王ジョージ5世になついていた。


エリザベス王女は6歳の時、「たくさんの馬と犬に囲まれた田舎のレディーになりたい」と、乗馬のコーチに話していたという。

王女は幼いころから、非常に責任感の強い子供だったと伝えられている。後の英首相ウィンストン・チャーチル氏は当時のエリザベスについて、「幼いのに驚くほど堂々としている」と語っていた。

学校教育は受けなかったものの、王女は語学に長け、憲政史を詳しく学んだ。

一方で、王女が同年代の女の子たちと交流できるよう、ガールスカウトの「第1バッキンガム宮殿」が結成された。

高まる緊張

1936年にジョージ5世が亡くなると、デイヴィッドとして知られていた長男がエドワード7世となった。

しかし、2度離婚経験のあるアメリカ人ウォリス・シンプソンとの結婚が、政治的・宗教的に受け入れられない見込みとなり、その年末、エドワード7世は退位した。


これを受け、次男のヨーク公がジョージ6世となった。ジョージ6世の戴冠式は、いずれエリザベス王女も経験することになる未来の予兆でもあった。王女は後に、この礼拝を「とても、とても素晴らしいもの」と感じたと書き残している。

欧州の対立が高まる中、ジョージ6世とエリザベス王妃は君主に対する国民の信頼を取り戻そうとした。両親のこの手本は、エリザベス王女に強い印象を残した。

13歳になった王女は1939年、国王夫妻に連れられ、英南東部ダートマスの海軍兵学校を訪問した。

この時、エリザベス王女とマーガレット王女の案内役を務めたのが、親類にあたる「ギリシャのフィリップ王子」だった。


立ちはだかる障害

フィリップ王子とエリザベス王女が会うのはこれが初めてではなかったが、王女が王子に興味を持ったのはこの時だった。

フィリップ王子は海軍勤務中、休みとなると親類の国王一家を訪ねていた。1944年に18歳になるころには、エリザベス王女は明らかにフィリップ王子に恋をしていた。フィリップ王子の写真を部屋に飾り、2人は文通を重ねた。

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戦争が終わりに近づくころ、王女は補助地方義勇軍(ATS)に参加。運転を覚え、トラック運転手として働いた。ヨーロッパ戦勝記念日には、王室の一員としてバッキンガム宮殿に赴き、宮殿前の大通り「ザ・マル」に集まった数千人の国民とヨーロッパの終戦を祝った。

当時についてエリザベス女王は後に、「自分たちの目で確かめたいから、出かけてもいいかと両親に頼んだ」と回想している。

「自分たちのことを気づかれるのが、恐ろしかったのを覚えている。知らない者同士がが腕を組んでホワイトホール(官庁街)を歩いていて、誰もが大きな幸せと安心に包まれたのを覚えている」

戦争が終わると、エリザベス王女はフィリップ王子との結婚を望んだが、いくつかの障害が立ちはだかった。

ジョージ6世は溺愛する娘を手放したがらなかったし、。フィリップ王子も、自分の外国の血筋を受け入れない上流階級の偏見を乗り越えなくてはならなかった。


しかしエリザベス王女とフィリップ王子の希望はかなえられ、2人は1947年11月20日、ウェストミンスター寺院で結婚した。

フィリップ王子はエディンバラ公となり、海軍将校として軍務を継続。地中海のマルタへ赴任することになった。ここで2人は短期間ながら、一般的な駐在武官の生活を送ることができた。


長男のチャールズ王子は1948年にバッキンガム宮殿で生まれた。長女のアン王女は1950年に生まれた。さらに1960年にはアンドリュー王子、1964年にはエドワード王子と家族は増えていった。

一方で、戦時中に多大なストレスを抱えていたジョージ6世は、長年の喫煙もあいまって、肺がんの末期症状をわずらっていた。

1952年、25歳のエリザベス王女は、フィリップ殿下と共に英連邦加盟諸国の歴訪に出かけた。ジョージ6世は医師の助言を退け、2人を空港まで見送りに行った。これが王女が父親を見た最後の機会だった。

王女夫妻は、王の訃報が届いたとき、アフリカ・ケニアの狩猟小屋に宿泊中だった。エリザベス女王はすぐにロンドンへと帰還した。

女王は後に、「ある意味で、私に修行時代はなかった」と振り返っている。

「父はあまりに若くして亡くなったので、突然すべてを任されてしまい、なんとかできる限りのことをするしかなかった」

個人攻撃

エリザベス女王の戴冠式は1953年6月、チャーチル首相の反対を押し切ってテレビ中継された。数百万人がテレビの前に集まり、その多くが初めて、女王が宣誓する場面を目にした。

戦後の緊縮財政が続いていたイギリスでは、この戴冠式は新しいエリザベス朝の幕開けだとの見方があった。

一方で、第2次世界大戦は大英帝国の終わりを早める役割も果たした。新しい女王が同年11月からイギリス連邦をめぐる長い旅に出た時には、インドを含めた多くの旧植民地がすでに独立していた。

エリザベス女王は、オーストラリアとニュージーランドを訪問した初めての君主となった。オーストラリアでは、国民の4分の3が彼女を一目見ようと集まったと推測されている。

1950年代にはさらに多くの国々がイギリス国旗を下ろし、旧植民地や領地は自主的な共同体としてまとまるようになった。

この新しい英連邦が、新たに台頭してきた欧州経済共同体(EEC)への対抗勢力になり得ると、多くの政治家が考えた。その結果、イギリス政府はある程度、欧州大陸から目をそらすことになった。


しかし、イギリスの影響力の衰退は1956年のスエズ動乱(第2次中東戦争)で加速した。危機を前に、英連邦がまとまって行動できないことが明らかになったためだ。エジプトによるスエズ運河の国有化阻止にイギリス軍を派遣する決定は、不名誉な結末に終わり、アンソニー・イーデン首相の辞任につながった。

これによって女王は政治的危機に巻き込まれた。当時の保守党には新しい党首を選ぶ仕組みがなく、協議を続けた末、女王はハロルド・マクミランに新政権を作るよう要請した。

女王はさらに、アルトリンチャム卿による雑誌記事で個人攻撃を受けた。卿は記事で、女王の取り巻きが「イギリス的過ぎ」で「上流階級すぎる」として、原稿が用意されなければ簡単な演説もできないと批判した。

この主張に報道各社は猛反発し、アルトリンチャム卿は帝国支持者の集団から街なかで襲われるに至った。

それでも、この一件はイギリス社会の変化を浮き彫りにした。王室への態度も急速に変化しており、かつては当然と思われていたことも疑問視されつつあると示すものだった。

「君主」から「王室」へ

宮廷が堅苦し過ぎると不満をあらわにする夫の後押しを得て、女王はこの新しい世の中に対応するようになった。

若い女性の社交界デビューを宮廷で迎える慣習は廃止され、「Monarchy(君主制)」という表現は次第に「Royal Family(王室、女王一家)」という呼び方に変わっていった。

1963年にマクミラン首相が辞任すると、女王は再び、政治的な紛糾(ふんきゅう)のただ中に置かれた。保守党にはまだ新党首を選ぶ仕組みがなかったため、女王はマクミランの助言を得てアレック・ダグラス=ホーム伯爵を新首相に選んだ。

女王にとって苦しい時代だった。憲法に正しく従うことを重視した女王は、君主は時の政府からなるべく距離を置く必要があると考えていた。政府から情報を得て、君主として政府に助言し、警告する自分の権利を重視したものの、それ以上の関与は求めなかった。

女王が首相を自ら選ばなくてはならなかったのは、これが最後だった。保守党はついに、新しい党首はただ自然に「登場」するものという伝統に終止符を打ち、党首選びのしっかりした仕組みを構築した。


1960年代後半になると、王室をもっとゆったりした親しみやすい形で国民に示す必要があると、バッキンガム宮殿は判断した。

その結果が、「王室」という画期的なドキュメンタリーだった。BBCはウィンザー一家が自宅にいる様子を、間近で撮影することが認められた。バーベキューを楽しむ一家、クリスマス・ツリーに飾りつけする一家、子供たちをドライブに連れだす一家――いずれもごく普通の活動だが、国民の目に触れるのは初めてだった。

リチャード・コーストン監督のこのドキュメンタリー映画について、王室をまるで普通の人のように描くことで、その神秘性を損なったという批判もあった。バルモラル城の敷地内で家族がバーベキューを楽しみ、フィリップ殿下がソーセージを焼く様子などが含まれたためだ。

それでも、このドキュメンタリーは、前よりリラックスした世相にマッチし、国民の王室への支持は回復した。

1977年には、在位20年のシルバー・ジュビリーを、国中が本当に熱心に祝った。王室への国民の愛着は強固に見えた。その愛着のほとんどが、女王に対するものだった。

その2年後、マーガレット・サッチャーがイギリス初の女性首相に就任した。女性の国家元首と女性の政府トップの関係は、時にぎこちないものだったと言われている。

醜聞と災難

女王と首相の関係を難しくしたもののひとつが、英連邦だった。女王は自分が長を務める英連邦を、非常に重視していた。女王はアフリカ諸国の首脳をよく知り、彼らの主張に同情的だった。

サッチャー首相の態度や対決的な姿勢を、女王は「不思議」に思っていたとされる。特に、南アフリカのアパルトヘイト政策を制裁することに、サッチャー首相が反対し続けたことは、女王を困惑させたと言われている。

女王は公務を続けた。1991年の湾岸戦争後に訪米した際には、イギリスの国家君主として初めて連邦議会の上下両院合同会議で演説した。当時のジョージ・H・W・ブッシュ大統領は、「(女王は)記憶にある限り、もうずっと自由の友人だった」と述べた。


しかしその翌年には、醜聞や災難が相次ぎ王室を襲い始めた。

女王の次男、ヨーク公と妻サラ妃が別居し、アン王女とマーク・フィリップスは離婚した。加えてチャールズ皇太子夫妻のひどい不仲が明らかになり、こちらも別居することになった。

この年にはさらに、女王が好んだ居宅、ウィンザー城が大火事に見舞われ、災難続きの王室にふさわしい、暗たんたる事態だと受け止められた。城の修理代を誰が払うべきか、納税者なのか女王なのかが論争になったことも、助けにならなかった。

女王は1992年を「ひどい年」と呼び、ロンドンの金融街シティでの演説では、マスコミに対決姿勢を軟化してもらうには、王室がもっと開かれなくてはならないと、受け入れた様子だった。

「どのような制度も年も王室も、忠誠を尽くす支持者による精査の目を免れられると思ってはなりません。ましてや支持しない人たちの精査はもちろんです。けれども私たちはみな、一つの国の社会を織りなすものの一部なので、精査するにしても、ある程度穏やかに、ユーモアと理解をもって行ったとしても、同じくらい効果的です」

国の機構としての王室はこの時、防衛態勢をとっていた。ウィンザー城の修理代を工面するため、バッキンガム宮殿は入場者に開放された。加えて、女王と皇太子が、投資で得た利益について税金を払うと発表された。


女王は即位当初、英連邦に大いに期待を寄せたが、これはなかなか実現しなかった。イギリスは欧州での新しい仕組みに参加し、古くからのパートナーに背を向けた。

それでも女王は英連邦を重視したし、自分が21歳(イギリスの成人年齢)の誕生日を迎えた時に訪れていた南アフリカが、ついにアパルトヘイトを廃止したことを深く喜んだ。1995年3月には南アフリカを訪れ、アパルトヘイトの終了を祝った。

国内では、王室に未来はあるのかという国民的な議論が続いていたが、女王は王家の威厳を維持しようと努めた。

ダイアナ元妃の急死


イギリスが新しい命運を探して苦しむ中、女王は国民を安心させる存在であり続けようとした。女王がいきなりパッと笑みを浮かべれば、重々しい場面もたちまち明るくなった。女王が何より重視した役割は、国の象徴としてのものだった。

それでも1997年8月にダイアナ元妃がパリで起きた交通事故で急死すると、王室は大きく揺らぎ、女王自身も異例の批判を浴びる羽目になった。

国民が献花のためバッキンガム宮殿に押し寄せる中、女王は国民の心をひとつにまとめようと、なかなかしたがらない様子だった。それまで国の一大事には、女王は常にその役割を果たしてきたにもかかわらず。

女王を批判した人の多くは、悲しみをほとんどヒステリックなまでに表現することを厭(いと)う、女王はそういう世代の人間だということを理解していなかった。そして、ダイアナ元妃の死に対する国民の反応は、時にそれほど感情的だった。

女王はさらに、自分は祖母として、ダイアナの息子である孫たちを身内の間で慰めなくてはならないとも思っていた。

結局、女王はテレビの生中継で義理の娘に敬意を表し、君主制は時代の変化に対応していくと約束した。

喪失と祝賀

女王在位50周年「ゴールデン・ジュビリー」にあたる2002年には、「クイーン・マザー」と呼ばれた女王の母親と妹のマーガレット王女が相次ぎ亡くなり、女王の治世を祝う国を挙げた行事に影を落とした。

こうした家族の死や、君主制の将来について度重なる議論があったものの、「ゴールデン・ジュビリー」に合わせてバッキンガム宮殿前の大通り「ザ・マル」には100万人もの人が詰めかけた。


2006年4月に80歳の誕生日を迎えると、ウィンザーの町中を非公式に歩き、沿道に並んだ何千人もの市民に出迎えられた。

2007年11月には夫のフィリップ殿下との結婚60周年を祝うため、ウェストミンスター寺院で2000人規模の礼拝が行われた。

おめでたい出来事はこの後も続いた。2011年4月には、孫のケンブリッジ公爵ウィリアム王子とキャサリン・ミドルトンさんの結婚式に出席した。

女王は同年5月、イギリスの君主として約100年ぶりにアイルランドを公式訪問。歴史的に重要な出来事となった。

アイルランド語で語り始めた演説で、女王は寛容と和解を呼びかけた。「もっと違う形で行われていたらと思うことや、あるいは、まったく行われなければ良かったのにと思うことがあります」と述べ、イギリスとアイルランドの複雑な過去に言及した。

住民投票

その翌年には、女王即位60周年の「ダイヤモンド・ジュビリー」の一環として北アイルランドを訪問し、アイルランド共和軍(IRA)の元司令官マーティン・マクギネス氏と握手を交わした。

女王は1979年にIRAの爆弾で、いとこのルイス・マウントバッテン卿を亡くした。それだけに、かつてのIRA闘士との握手は、様々な思いに裏打ちされた、画期的な瞬間だった。


「ダイヤモンド・ジュビリー」では何十万人もの人が路上に溢れ、週末にはロンドンで祝賀行事が行われた。

2014年9月に行われたスコットランド独立の是非を問う住民投票は、女王にとって試練の時となった。女王は1977年の議会演説で、連合王国の維持を重視すると打ち出した。これを忘れた人はほとんどいなかったからだ。

「私の先祖には、イングランドとスコットランドの王と女王、そしてウェールズの王子たちがいます。それだけに、(スコットランドの)独立の願いは容易に理解できます。けれども私は、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国の女王として戴冠しました。それを忘れることはできません」と、女王は当時述べている。

スコットランド住民投票の前夜、女王はバルモラルで支持者に向けて、将来について皆じっくり慎重に考えてもらいたいと口にしており、それは近くにいた人たちの耳にも入った。

投票の結果、イギリス残留派が多数だったと判明すると、女王は公式声明の中で政治情勢の変化は認めつつ、イギリスの連合は依然損なわれていないとして、深く安心した様子を強調した。

「様々な意見が出たにも関わらず、自分たちにはスコットランドに対する変わらぬ愛があり、それが私たち全員の団結を助けるもののひとつです。これから前へ進むにあたり、このことを覚えておくべきです」と女王は述べた。


2015年9月9日には、在位期間がヴィクトリア女王を越えてイギリス史上最長の君主となった。女王はこの記録について、「特に目指してきたものではない」として、おおごとにすることを拒否。いかにも女王らしい反応だった。

それから1年もたたない2016年4月に90歳の誕生日を迎えた

エディンバラ公が2017年に全ての公務から引退した後も、女王はしばしば1人で公務を続けた。家族をめぐっては、夫が交通事故を起こしヨーク公アンドリュー王子と米富豪ジェフリー・エプスティーン被告の不見識な交友関係が明るみになり、ハリー王子が王室の一員としての生活に失望を募らせるなど、ひずみが生じた。

女王の治世が依然として確実に続いていると女王が体現し続ける一方で、こうした不安な出来事も続いた。また、2021年4月には新型コロナウイルスのパンデミックの最中にフィリップ殿下が死去。1年後には「プラチナ・ジュビリー」の祝賀が行われた

女王の治世の終わりが訪れた今、君主制はその当初ほどは強固ではないかもしれない。それでも女王は、王室がイギリス国民の愛情と敬意の対象であり続けなくてはならないと、固い信念を抱いていた。

女王は1977年の「シルバー・ジュビリー」の際に、30年前に南アフリカを訪問した際の誓いをこう振り返っている。

「21歳の時、私は国民のために生涯を捧げることを誓い、その誓いを果たすために神に助けを求めました。世間知らずの若い頃に誓ったことですが、私はその誓いの一言たりとも後悔はしていないし、撤回もしません」

(英語記事 Obituary: A long life marked by a sense of duty

提供元:https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-62842372

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