2024年10月10日(木)

古希バックパッカー海外放浪記

2024年8月4日

(2024.3.13~5.1 50日間 総費用23万8000円〈航空券含む〉)
大規模公立小学校の新校舎。プエルト・プリンセサ市の重点教育校らしい。「セキュリティー銀行基金で建設」と書いてある

 フィリピンというと、いまだに日本人の間には、銃による殺人が横行する治安の悪い国、そして爆弾テロや身代金目当ての誘拐を繰り返す、イスラム教過激組織が跳梁跋扈している危ない国というイメージが残っているようだ。「フィリピンを50日間もほっつき歩いて危なくなかった?」としばしば友人知人に聞かれる。

 しかし西側諸国では、強権独裁で悪名高いドゥテルテ前大統領のお陰で治安は飛躍的に改善したとフィリピン人は実感している。イスラム教徒独立運動についても多数派のモロ民族戦線(MNLF)、モロ・イスラム解放戦線(MILF)と合意に達してドゥテルテ政権下の2019年に暫定自治政府が発足した。

 他方であくまでフィリピンからの独立を標榜するイスラム過激派は、依然としてミンダナオ島南西部の山間部やボルネオ島に近いバシラン州、スールー州を拠点に武装闘争を継続している。イスラム国(IS)と結んでいるアブ・サヤフ(AS)の他、ダウラ・イスラシア(DI)、パンサモロ自由戦士(BIFF)などだ。

 フィリピンは人口1億2000万人弱。人口の93%がキリスト教で大半がカトリックである。イスラム教は5%に過ぎず、しかも大半はフィリピン南部のミンダナオ島以南に居住している。従ってフツウのフィリピン人にとりイスラム過激派はまったくの嫌われ者である。誰に聞いても政府軍による壊滅作戦を支持している。

 それではフツウに暮らしているイスラム教徒の生活はどのようなものか興味を抱いた。

公立小学校のイスラム教徒児童

 4月17日。プエルト・プリンセサの大聖堂を見学してから海岸を散策しようと、小路を南へ十分ほど歩くと、小学校があった。保護者らしい女性たちが子どもの出迎えのため日陰に集まりおしゃべりしていた。

 大きな公立小学校で保護者に聞くと生徒数3000人。フィリピンの小学校は幼稚園を併設しているケースが多い。ちなみにフィリピンでは幼稚園1年、小学校6年、高校6年が義務教育である。大人数になると教室や教員が足りないので、フィリピンの公立学校では通常午前の部と午後の部の2部制にして授業する。この小学校では校舎を増築して一部制の授業を維持していた。

 通りに面した新しい校舎は地元の金融機関の基金と有志の寄付で建設資金を賄ったとのこと。校舎の周囲の柵には有志の芳名が記されていた。

 イスラム教徒のスカーフ(=ヒジャブ)を被っている保護者が何人かいた。この付近ではイスラム教徒の住民が多く生徒の約3割がイスラム教徒という。そのためこの小学校では公立学校の正規科目に加えイスラム教徒の生徒にはアラビア語、コーランの授業が組まれているという。

 アラビア語は週1時間、コーラン等のイスラム教学は道徳の時間にキリスト教徒児童と分けて授業しているという。その他はフィリピン教育省の規定に従ったカリキュラムである。子どもの将来を考えたバランスが取れたカリキュラムに思えた。

イスラム教徒としての適正な宗教教育とは

 余談ではあるが、筆者はかねてからイスラムの宗教教育について疑問を抱いていた。イスラム教が盛んな中東・北アフリカ・西南アジアでは、アラビア語やイスラム教学を中心としたカリキュラムのイスラム学校“マドラサ”が多数ある。筆者の見聞ではイランやパキスタンなどのマドラサでは、アラビア語とコーランの暗唱が授業時間の大半を占め、英語・数学・科学などの科目が疎かになっている。

 そのためマドラサだけで教育を終えた若者は高度な専門的職業に就けない。ひいては社会全体が停滞する原因にもなっていると聞いた。アフガニスタンのタリバン政権下の学校ではイスラム教偏重教育が強いられ子供たちの将来が危惧される。

屋根付きバスケットボール・コートの被災者避難所

バスケットボール・コートにカラフルなテントが並ぶ被災者避難所

 小学校からさらに5分ほど海に向かって歩いていると、屋根付きバスケ・コートの壁一面に洗濯物が干されているのが見えた。コートいっぱいに色とりどりのテントが所狭しとばかりに張られている。テントごとに家族が暮らしている。

 このバスケ・コートは本来地域の町内会事務所の付属施設のようだ。フィリピンの町内会であるバランガイ(Barangay)は市町村の最小行政単位である。町角に事務所があり、しばしばバスケ・コートが併設されている。

 事務所の入り口に「避難センター情報掲示板」があった。大火災で被害をうけた被災者家族の詳細だ。受入家族:累計55家族、現在48家族、受入被災者:累計188人、現在171人、内訳は男性100人、女性71人。乳児2人、幼児8人、幼稚園5人、小学生14人、13~19歳・14人、20~59歳・115人、60歳以上13人。

 現有設備として共同調理場、水浴場2カ所、トイレ3カ所、水道蛇口9カ所、洗濯場2カ所が稼働。役場の職員がマネージャーとして常駐しているらしい。

 事務所に入り挨拶するとマネージャーの女性が対応してくれた。近くの海岸の海上集落で3カ月前に火災が発生して百数十世帯が罹災して家を失った。役所がこのバスケ・コートと近くのもう一つのコートに避難所を開設。役所では被災者のために仮設住宅を建設中で2週間後に入居できる予定であると。

 被災家族はすべてイスラム教徒であり、近くの回教寺院(モスク)が支援しているという。事務所には髭を蓄えた老人がおり、マネージャーは筆者に老人がモスクのイマム(宗教指導者)であると紹介した。残念ながらイマムは英語があまり話せないらしい。マネージャーによるとイマムはモスクに寄せられた喜捨(ザカート)で避難所に必要な物資を調達してくれるという。また毎日避難所に来て避難民家族の相談に乗ったり、トラブルの仲裁を行ったりしているという。

 モスクが役所と連携して避難所の運営を支援して、さらに宗教指導者は住民の日常生活を精神面からも支えている。イスラム教徒の生活共同体におけるモスクおよび宗教指導者の存在意義が分かってきた。

路地裏の小さなモスク

モスクの丸天井の天窓から光がさしている。この路地裏のモスクの他に海上集落に隣接するモスクもあった

 モスクは近くにあるというので、数分歩くと路地裏に小さな丸い屋根の寺院があった。寺院の内部はがらんとしており、メッカの方向の脇に説教壇があるだけの簡素な建物だ。隣の家の住人によると1日5回の礼拝時間以外は無人という。

 寺院の写真を撮っていたら老婆が出てきて誰何(すいか)した。「日本から旅行に来た。フィリピンのイスラム教徒に興味があるのでモスクの写真を撮っている」と答えたら安心した様子で訥々とした英語で語り始めた。


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