2024年11月5日(火)

プーチンのロシア

2024年9月13日

 開戦から2年以上が経過したウクライナ戦争。この戦争の趨勢を見極めるには、ロシア・ウクライナ双方の国民の「意思」を、注意深く見定める必要があります。
 2024年3月の大統領選で、得票率87%と「圧勝」したプーチン大統領。だが彼への支持率は、どこまで信用できる数字なのか?
 ロシア人の生の声と、プーチン氏の人生を追い、ロシアにおけるプーチン支持の実像に迫る。

*本記事は黒川信雄氏の著書『空爆と制裁 元モスクワ特派員が見た戦時下のキーウとモスクワ』(ウェッジ)の一部を抜粋したものです。
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 2000年の就任以来、ロシアを実質的に20年以上にわたり統治し続け、21世紀の現代において、さらなる領土拡張のためにウクライナに侵攻したプーチン氏。国内の統治においても、時に自国民への弾圧も辞さないその強烈な手法は、一体どのようにして培われたのか。

 ウラジーミル・プーチン氏は1952年10月に、旧ソ連のレニングラード(現サンクトペテルブルク)で生まれた。兄がふたりいたが、ひとりは第二次世界大戦前に、もうひとりは大戦中に死亡している。レニングラードは戦時中、ナチス・ドイツ軍により約900日にわたり包囲され、膨大な数の市民が死亡した悲惨な歴史を持つ都市だ。そのような戦争が終結し、復興に向けて歩み始めた街の中で、プーチン氏は育ったことになる。

プーチン大統領が青年時代までを過ごしたサンクトペテルブルクの街並み(2017年6月筆者撮影)

 プーチン氏は少年時代、学業において必ずしも優秀な学生ではなかったとされる。しかし、サンボ(柔道とレスリングを組み合わせたようなソ連発祥の格闘技)、のちに柔道を学び、高校卒業後はレニングラード大学で法律を専攻した。

 一九七五年に大学を卒業した後、旧ソ連の諜報機関である国家保安委員会(KGB)に就職し、モスクワにあるKGB赤旗大学での訓練を終えると、1985年には東ドイツのドレスデンに派遣された。プーチン氏はここで、1980年代後半に東欧を覆った民主化のうねりに直面することになる。

 1989年11月に、ベルリンの壁が崩壊したころ、ドレスデンにあった旧東ドイツの情報機関「国家保安省」(通称・シュタージ)の拠点に、暴徒となったドイツ人の群衆が押し寄せたことがあった。プーチン氏は地下室で機密文書を処分する作業を行っていたが、群衆が集まるなか、プーチン氏は意を決してボディーガードを引き連れ建物の外に出て、群衆と対峙したという。プーチン氏はその際、武力を使い拠点を防衛することも辞さない覚悟だったというが、その日は幸い、そこまでの事態には至らなかった。

 ただ、この出来事は、プーチン氏の心に衝撃を与えた。なぜなら、プーチン氏はソ連の軍事基地に応援を要請したものの、〝モスクワからの命令がなければ、動くことはできない〟と回答されたからだ。アメリカ国家安全保障会議(NSC)でヨーロッパ・ロシア担当上級部長を務めたフィオナ・ヒル氏によれば、このときの出来事についてプーチン氏は「われわれを守るために、指一本上げる者さえいなかった」と述懐し、政府に見捨てられた気持ちになったという。ソ連という国の弱体化を、若き日のプーチン氏は見せつけられた。

 そして、ソ連崩壊の直前の1990年に、プーチン氏はレニングラードに呼び戻される。KGBの現役予備役となり、レニングラード大学で学長補佐官に就任した。そして当時の同大学教授で、後にサンクトペテルブルク市長となるアナトーリ・サプチャーク氏と出会う。サプチャーク氏が大学を辞めて、レニングラード市ソビエトの議長に就任した際に、プーチン氏はサプチャーク氏の顧問に就任。そして市長選に出馬したサプチャーク氏が勝利すると、1991年6月にプーチン氏は副市長に就任する。ソ連崩壊の約半年前のことだ。そして副市長就任の2カ月後には、プーチン氏はKGBを辞職する。

 プーチン氏は最近のインタビューで、1990年代には自ら、ドレスデンから持ち帰った車を使い〝白タク〟の運転手を行っていたと証言している。白タクは、ソ連崩壊後の経済混乱を象徴するような仕事で、車を持っていた多くの人々が日銭を稼ぐために行っていた仕事だ。もし事実であれば、プーチン氏もまた、ソ連崩壊後の経済混乱に深く巻き込まれていたことになる。

KGB出身の大統領

 1980年代から90年代初頭にかけて、プーチン氏はソ連崩壊の悲哀を痛切に身に感じた。政府への幻滅、経済の崩壊、生活苦が、プーチン氏を襲った。しかしその一方で、プーチン氏はサプチャーク氏との出会いをきっかけに政治の世界に足を踏み出し、その後は一定の紆余曲折はあったものの、出世街道をひた走ることになる。


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