2025年4月22日(火)

BBC News

2025年4月14日

1990年撮影のバルガス・リョサ氏

ペルー出身のノーベル文学賞受賞作家、マリオ・バルガス=リョサ氏が13日、首都リマで死去した。89歳だった。息子のアルバロ・バルガス=リョサ氏が発表した。

マリオ・バルガス=リョサ氏は「ボスたち」、「都会と犬ども」、「緑の家」など50作以上の作品を残し、その多くが多数の言語に翻訳されている。2010年にノーベル文学賞を受賞した際には、審査員から「物語を語る傑出した才を持つ」作家だと評価された。ラテンアメリカの文学と文化にとって巨大な存在で、批判に臆することもめったになかった。

豊かな言語表現による描写力で、権威主義、暴力、そしてマッチョイズムを描いた。「ラテンアメリカ文学ブーム」の中心的な存在のひとりとして、中南米が世界的に注目されるきっかけを作った。

当初は左翼思想に共感していたが、ラテンアメリカの革命運動に幻滅し1990年には中道右派政党からペルー大統領選に立候補したものの、アルベルト・フジモリ氏に決選投票で敗れた。

1936年にペルー南部アレキパの中流家庭で生まれた。幼少期に両親が離婚した後、曽祖父母と共にボリビアのコチャバンバへ移住。10歳でペルーに戻り、6年後に最初の戯曲「インカの脱出」を書いた。リマ大学を卒業し、スペインで学んだ後、パリへ移住した。

1962年に発表した最初の小説「都会と犬ども」は、ペルーの陸軍士官学校における汚職と虐待を告発する内容で、軍が政治的・社会的に大きな権力を握っていた時代の作品。 その強烈で威嚇的な描写は、ペルー軍の複数の将軍に非難された。バルガス=リョサ氏を「堕落した精神の持ち主」と攻撃する将軍もいた。

この小説は、作家自身が10代だった当時、レオンシオ・プラド陸軍士官学校で過ごした経験に基づいており、「極めてトラウマ的な経験」だったと1990年に話した。士官学校で過ごした2年間で、バルガス=リョサ氏は祖国のことを「暴力的で、苦々しい思いにあふれ、社会的、文化的、そして人種的なさまざまな派閥が激しく対立する社会」と見るようになった。バルガス=リョサ氏によると、学校側は校内でこの小説を1000部焼却したのだという。

実験的な2作目の小説「緑の家」(1966年)はペルーの砂漠とジャングルを舞台に、売春宿を拠点とする客引き、宣教師、兵士が手を組む様子を描いた。

バルガス=リョサ氏のこの小説2作は、1960年代から70年代にかけて文学界に起きた「ラテンアメリカ文学ブーム」の礎を築いた。混乱する大陸を反映した、実験的で、かつはっきりと政治的な作品群が、このブームの特徴だった。

ブームの中心となったもう一人の作家、コロンビア出身のガブリエル・ガルシア=マルケス氏は、万華鏡のような魔術的リアリズムの作風を開拓して確立した。バルガス=リョサ氏とも親しく、時にライバル同士でもあった。2人をはじめとする多くの中南米作家は広く知れ渡り、その作品は世界中で読まれるようになった。

1976年にメキシコの映画館でバルガス=リョサ氏がガルシア=マルケス氏の顔を殴って以来、2人が数十年もの間、口をきかなかったことはよく知られている。なぜバルガス=リョサ氏がガルシア=マルケス氏を殴ったのか、その理由については諸説ある。

ガルシア=マルケス氏の友人らは、バルガス=リョサ氏の当時の妻パトリシアさんをめぐる口論がきっかけだったと言う。一方で、バルガス=リョサ氏本人は2017年にスペインのマドリード大学で学生たちに、キューバとその共産主義指導者フィデル・カストロ議長についての意見相違が原因だったと話した。

2007年に2人は和解し、3年後の2010年にバルガス=リョサ氏はノーベル賞を受賞した。南米の作家としては、1982年のガルシア=マルケス氏以来の受賞だった。

バルガス=リョサ作品の多くは、20世紀後半にラテンアメリカの一部で相次いだ革命と軍事政権の荒波、そしてそれに伴う不安定と暴力と密接に絡みついている。

小説「大聖堂での会話」(1969年)は、1948年から1956年にかけて続いたマヌエル・オドリア将軍によるペルーの軍事独裁政権がいかに一般人の生活を支配してその人生を台無しにしたかを暴露し、高く評価された。

多くの知識人と同様、バルガス=リョサ氏はキューバのカストロ議長を支持したものの、1971年に詩人のエベルト・パディージャ氏がキューバ政府を批判したために投獄された「パディージャ事件」を機に、カストロ議長に幻滅した。

バルガス=リョサ氏は1983年、ペルー・アンデス山脈の村でジャーナリスト8人が惨殺された事件(ウチュラハイ虐殺事件として知られる)を調査する委員会の委員長に任命された。

ペルー当局は、先住民の村民たちはジャーナリストらを毛沢東主義ゲリラ集団「光の道」のメンバーと勘違いし、殺害したのだと主張した。

委員会の報告書は政府の公式見解を裏付ける内容で、委員長のバルガス=リョサ氏は反政府派に激しく非難された。反政府勢力は、事件の陰惨な性質や、殺害された記者たちの遺体が無残に切り刻まれたことについて、それは「先住民の暴力」の印などではなく、政府の悪名高い対テロ警察の手口だと主張していたからだ。

バルガス=リョサ氏の政治姿勢は、その後も右傾化を続けた。1990年には中道右派の民主戦線連合から新自由主義を掲げてペルー大統領選に出馬したものの、フジモリ氏に敗れた。フジモリ政権はそれから10年間続いた。

バルガス=リョサ氏はウチュラハイ虐殺事件の調査について激しく批判されたが、それでも文学を通じて国家による弾圧と権力濫用(らんよう)を暴露し続けた。

2000年発表の小説「山羊の宴」では、1961年に暗殺されるまで31年間ドミニカ共和国を支配した独裁者ラファエル・トルヒーヨ将軍を描いた。ノーベル賞委員会はこの作品について、「権力構造」と「個人の抵抗、反乱、敗北のイメージ」に注目したものだと評価した。

映画化された作品も多い。最初の結婚生活に基づく「フリアとシナリオライター」は、1990年にハリウッドで「ラジオタウンで恋をして」として映画化された。

作家人生の後期には、「ケルト人の夢」(2012年)でアイルランドの独立運動家ロジャー・ケイスメントを取り上げるなど、多彩な人物を題材にした。

晩年は、ペルーとマドリードで過ごしていた。

2015年には50年来の妻と別れ、スペイン系フィリピン人のイサベル・プレイスラー氏と再婚した。プレイスラー氏は人気ラテン歌手エンリケ・イグレシアス氏の母で、いわゆる「社交界の有名人」だったこともあり、スペインのゴシップ誌にしきりに取り上げられた。

バルガス=リョサ氏は、議論を引き起こす発言をしきりに繰り返し、批判を浴び続けた。

2019年にはメキシコで記者の殺害が増えている問題(過去10年間で100人以上)について、報道の自由の拡大によって「ジャーナリストが以前は許されていなかったことを言えるようになった」せいだと発言し、広く非難された。「全ての中心には間違いなく、麻薬密売がかかわっている」とも述べてはいたが、犠牲者とその家族への同情を示していないと批判された。

2018年には、スペイン紙エル・パイスのコラムで、フェミニズムを「文学からマチズモやさまざまな偏見や不道徳を取り除いて浄化しようとする、断固として文学に立ち向かうする敵」と呼んだ。

息子のアルバロ氏によると、バルガス=リョサ氏は13日、リマで家族に囲まれ、「安らか」に息を引き取ったという。

その死をもって、ラテンアメリカ文学ブームの最後の偉大なスターがいなくなった。

(英語記事 Mario Vargas Llosa: Giant of Latin American literature, with a punch to match

提供元:https://www.bbc.com/japanese/articles/cewgylwxlgwo


新着記事

»もっと見る