2025年5月13日(火)

BBC News

2025年4月22日

亡くなる前日の20日、教皇は復活祭の式典のため聖ペトロ広場に出て大勢を驚かせた。写真は専用車に乗って、集まる信徒を祝福しながら移動する教皇フランシスコ

ラウラ・ゴッツィ、BBCニュース(ローマ)

21日の正午、イタリア全土で教会の鐘が鳴り始めた。教皇フランシスコが亡くなったのだ。

教皇が前日に大方の意表をついて聖ペトロ広場を見下ろすバルコニーに登場し、復活祭(イースター)を祝うためにヴァチカン市国を訪れていた33万5000人を祝福してから、まだ24時間もたっていなかった。

日曜の教皇は、両肺の肺炎で38日間入院した後に医師から2カ月間の安静療養を指示されていたにもかかわらず、酸素チューブなしで自力で呼吸していた。

それまでの2週間、教皇はいつも通り訪問者を迎え、あらゆる境遇や立場の人々と会っていた。

復活祭の日曜日に教皇が現れると、広場の群衆は歓声をあげ、その後に静まり返った。

「親愛なる兄弟姉妹の皆さん、復活祭おめでとうございます」。懸命な努力で絞り出したような声で、教皇は祝った。

これが、公の場で教皇が口にした最後の言葉となった。

「みんな、何かを感じとったのではないかと思います。まるでこれが、(教皇に)会える最後だと悟ったみたいでした」。ローマ在住で、復活祭のミサのために聖ぺトロ広場にいたマウロさんはこう話した。マウロさんは、教皇死去の知らせを聞き、敬意を表すために広場に戻ってきていた。

「普段ならみんな、『教皇万歳!』と叫ぶのに(中略)今回はいつもよりずっと静かでした。教皇の苦しみに対する敬意が、いつもより強かったのかもしれない」とも、マウロさんは振り返った。

「私たちを祝福してくれましたが、声は枯れていました」と、アルベルトという男性はBBCに話した。「最後の別れを告げていたのだと思います」。

ローマのジェメッリ病院で教皇を治療した医師団は、退院後も完全な休養をとるよう処方していた。しかし、教皇として常に人に会い続けた活動的な教皇が、その言いつけを守るとはだれも思っていなかった。

自分を治療する専門医たちから、自分の健康問題はすぐに解決しないと説明された教皇は、ただちにイースターに間に合うようにヴァチカンに戻りたいのだと、はっきり意思表示した。

キリスト教徒にとって、イースターはきわめて重要な日だ。その重要性はクリスマスよりも大きい。なぜなら、十字架にかけられ処刑されたイエスが3日後に復活したという、キリスト教徒にとって信仰の核心を占める教義を象徴するのが、復活祭だからだ。

教皇は3月23日に退院する前にも、病院から群衆に手を振り、長年暮らしていたヴァチカン市国内のゲストハウス「聖マルタの家」の自室に戻った。

医療チームは、教皇に必要なのは酸素吸入だけで、感染症の多い病院よりもそこで療養するほうが良いという意見だった。

この時点でイースターまであとわずか3週間で、それが近づくにつれて教皇のスケジュールはますます忙しくなっていった。

「聖マルタの家」で教皇は4月9日、イギリスのチャールズ国王とカミラ王妃と面会した。その4日後の4月13日には、イエスのエルサレム入城を記念する「枝の主日」を祝うためにヴァチカンのバルコニーに姿を現し、医師の助言に反して聖ペトロ広場に集まった2万人の群衆と交流した。

しかし教皇にとって、何より大事なのはイースターだった。

17日には長年そうしてきたように、実のところ教皇になる前から地元アルゼンチンでそうしてきたように、教皇は刑務所を訪れた。今年もローマのレジナ・チェリ刑務所を訪れ、受刑者と30分ほどを共に過ごした。車いすで刑務所に到着した際には、玄関先で職員や警備員に出迎えられた。

過去には、こうして刑務所を訪れた際には受刑者の足を洗うのをならわしにしていた。これは、イエスが処刑前夜、最後の晩餐の前に弟子たちの足を洗ったとされることにちなんでいる。

「今年はそれができないけれども、それでも私はまだ皆さんのそばにいられるし、いたいのです」と、教皇はかすれた声で何十人もの受刑者たちに語り掛けた。教皇が刑務所内を移動すると、その姿を見に来た受刑者たちは歓声をあげた。

「私たちは本当に幸運です。外にいる人は、こうする(教皇を)見られないけれども、私たちは見ることができるので」と、男性の一人はイタリアのメディアに話した。

教皇が刑務所を離れる際、今年のイースターをどのように過ごすか記者が尋ねた。

「どのようにしてでも」と教皇は答えた。

そして日曜日、教皇はその通りにした。

アメリカのJ・D・ヴァンス副大統領と短く面会した後、教皇が聖ペトロ広場の群衆の前に姿を現すと、集まっていた群衆から大歓声が上がった。

教皇は最後の祝福として、ラテン語で「都市と世界へ」を意味する「ウルビ・エト・オルビ」と述べた。続いて、ディエゴ・ラヴェッリ大司教が教皇自ら書き下ろしたそのメッセージを代読した。教皇はその隣で静かに座っていた。

教皇の次の行動に、集まっていた人たちは意表を突かれて驚いた。教皇は広場へと下りて、そこで教皇が群衆と会うために使うオープントップの専用車に乗り込んだのだ。独特の形をした小さな白いメルセデス・ベンツに乗って、教皇は広場を移動して回った。

明るい陽の光が注ぐ広場に列をなす人たちを、教皇は手を挙げて祝福して回った。その姿を、カメラが撮影していた。赤ちゃんを抱きあげて教皇に近づける人たちもいた。

生前の教皇フランシスコを世界が目にしたのは、これが最後だった。

日曜日にフランシスコ教皇が祝福する様子を見ていたローマ在住のアルベルトさんは、訃報が衝撃だったことに変わりはないものの、教皇はもう長く生きられないだろうと日曜の時点で感じていたのだと話した。

「その様子を見て、あまり嬉しいと思えなかった。苦しんでいるのは目に見えて、はっきりわかったので。それでも、最後にもう一度会えたのは光栄なことだった」

教皇フランシスコ教皇は21日早朝、長年暮らした大好きな「聖マルタの家」で亡くなった。「聖マルタの家」は修道女らが管理するゲストハウスで、巡礼者や訪問者が使う、質素な部屋が100室あまりある。

教皇の死去から約2時間、教皇空位期間の管理責任者「カメルレンゴ」の役職に就いている枢機卿が、「聖マルタの家」の前に立ち、訃報を発表した。

教皇庁は21日夜には、教皇の死因が脳卒中と回復不能な心不全だったと発表した。

歴代の前任者が教皇用に整えられた豪華な居室に暮らしたのと対照的に、教皇フランシスコは「聖マルタの家」の質素な部屋で生活していた。就任当初に自分は「人々の間で暮らす」必要があるのだとして、教皇用の居宅を断っていた。

「もし私がたった一人で暮らすなら、少しでも孤立した状態で暮らすとしたら、それは私にとって何の役にも立たない」と、教皇は当時話していた。

今後数日間、世界各国の枢機卿らはフランシスコの後継者を選ぶコンクラーヴェ(教皇選挙)のためにローマに集まり、「聖マルタの家」に滞在する予定だ。

外では、聖ぺトロ広場の明るい日差しの中、圧倒的な大聖堂の下で、集まった人たちが司祭や修道士たちと交流していた。

灰色と白の服を着た修道女たちが、ヘッドフォンをつけて広場を踊る男性をにらみ、「敬意がない」とたしなめ舌打ちしていた。

教皇のイースター祝福を放送したのと同じ大型スクリーンには、今度は教皇がほほ笑む写真が映し出されていた。没後12時間後に教皇のために特別な祈りがささげられるという告知も出ていた。

ヴァチカンの近くでも遠く離れた場所でも、カトリック信者は教皇のために祈ることができる。そして、最後に今一度、イースターを共に祝ってくれたことに感謝するのだ。

(英語記事 Final days of Pope who joined Vatican crowds at Easter despite doctors' advice

提供元:https://www.bbc.com/japanese/articles/c8ep55yln9ro


新着記事

»もっと見る