2025年5月23日(金)

BBC News

2025年4月26日

教皇フランシスコ

アリーム・マクブール宗教編集長

21日に亡くなった教皇フランシスコがキリスト教カトリック教会を率いた12年間は、同教会にとって極めて重大な歳月だった。教皇は教会を未知の領域へと導いた。その手法は、今後も長く影響を及ぼすものだった。

教皇は、カトリック教会に対して大勢が抱く印象を和らげるために尽力した。教皇庁(ヴァチカン)による権力掌握の度合いを緩め、現代の重要な社会問題のいくつかに介入した。

カトリック教会の中にはまぎれもなく、批判勢力がいた。特に伝統主義者の間には、教皇の行動が教会の教えから大きく逸脱すると激怒する人々がいた。

自らの考えをきっぱり表明する平和主義者で、大国の行動が有害だと思えばそれを批判していた。それでも、さらにもっと進歩的であるべきだったという意見の人たちもいた。

しかし、2013年に選出された瞬間から、教皇フランシスコは打ち解けた雰囲気と笑顔で、会う人をその都度、リラックスさせた。世界のどこだろうと、教会は人々の日常に寄り添うべきだという信念を抱いていたし、教皇の親しみやすさは、本人の信念の基礎にある原理原則の表れだった。

「教皇職に就いた当初は、短い任期で終わるだろう、せいぜいが3、4年だろうと思っていた」。教皇は2025年1月出版の自伝「希望」で、こう書いていた。この本は、自分の業績を教皇自身がどう考えているのか、うかがえる内容となっている。

教皇として真っ先にしたことの一つに、ヴァチカン市国内の使徒宮殿3階にある教皇公邸への引っ越しを見送ったことがある。代わりに教皇は、枢機卿時代からずっと暮らしていた市国内のゲストハウスに住み続けた。

教皇につきものの華美な装飾を排除したという意味だと、そう解釈する人もいた。慎み深い謙虚な精神の表れだともされた。確かに教皇は謙虚な人として有名になった。それにそもそも自分の教皇名として、貧しい人のために尽くした聖人の名前を選んでいる。

しかし、本人が後に説明したところによると、教皇公邸に住まなかった理由は別にあり、本人の別の特徴によることだった。教皇は、大勢と一緒にいるのが大好きだったのだ。

教皇にとって、公邸はあまりに周囲から隔絶されていて、客人を迎えようにも迎えにくい場所に思えた。対照的にゲストハウスでは多くの聖職者に囲まれ、長いこと一人きりでいることはめったになかった。

60カ国以上への外国訪問、ヴァチカンでの面会、そして数え切れないほどの行事での様子を見ていれば、ほかの人のそばにいること、特に若者と接することこそ、教皇を元気にするのだと、はっきり見て取れた。

社会問題と「不完全なカトリック」

カトリックの教えの中で、一部の社会問題について大胆な姿勢の変化を教皇フランシスコは示した。

「教会はあらゆる信者を歓迎する。離婚した人も、同性愛の人も、トランスジェンダーの人も含めて」と、教皇は自伝で書いた。

カトリック教会の法典は、離婚を認めていない。そして同性愛については、教皇フランシスコが「人間としての事実」だと言及したのに対して、前任の歴代教皇は同性愛を「障害」などと呼んでいた。それだけに、離婚や同性愛についての教皇フランシスコの姿勢はこれもまた、教会内の伝統主義者の懸念を呼んだ。

しかし教皇は、多くの人の日常的な苦悩を教会が新しい視点から探求し、理解することを望んでいる様子だった。教皇自身、自分もかつてとは違う物の見方をするようになった、そういう歩みがあったのだと認めている。

教皇が「不完全なカトリック」と呼ぶ人々に思いやりを示し、いたわったことを、教会内の進歩派は歓迎した。しかし、教皇が受け入れる言葉を口にすれば、教会の外の意見にも影響するだろうという認識が広く共有されていた。

「初めてトランスジェンダーの人たちの団体がヴァチカンを訪れた時、私がその人たちの手を取り、キスをしたことで、誰もが涙ぐんでここを後にした。(中略)まるで私が何か特別なことをしてあげたみたいに! けれども彼女たちは神の娘なのです」と、教皇は自伝「希望」で書いた。

教皇フランシスコは、同性愛を犯罪とみなす国々を厳しく非難した。また、家庭内暴力の事例を挙げて、離婚が「道徳的に必要」になる場合もあると述べた。

しかし、教会の教えに変革を促すために、教皇はさらに踏み込んで行動できたはずだと言う人たちもいる。

カトリックの教えでは依然として、同性愛の「行為」は罪だ。結婚は依然として男女の間でのみ可能で、離婚は依然として正式に認められていない。教皇自身も性別適合や代理出産にきっぱりと反対し続けた。

さらに教皇は在位中も、そして就任する前からずっと、女性は司祭になるべきではないという信念を堅持し続けた。

ただし、教皇は教会を「女性的」なものと表現し、女性の叙階を認めないカトリックの教えに見合った形で、女性に指導的役割をもっと見つけるよう、世界中の教区に奨励した。

2021年には、ラファエラ・ペトリーニ修道女がヴァチカン市国の行政府事務総長に任命された。そして教皇のもとでヴァチカンは、礼拝を補佐する助祭の役割を女性が担えるかどうかを検討する継続的なプロセスを開始した。

しかしながら、女性が信者の過半数を占める宗派において、女性の平等についてもっと進歩がみられなかったことは、一部の改革派を失望させた。

その在位期間の後半に教皇は、10億人を超える世界中のカトリック信者からできるだけ大勢の意見を知ろうとする、野心的な3年間の協議プロセスを開始した。

カトリック信者が最も重視する問題は何なのかを知るため、世界中で数万回にわたり意見聴取会が開かれた。その結果、女性の役割や、LGBT+(性的少数者)のカトリック信者を教会がより包括的に受け入れる方法などが、信者の関心事の上位だと判明した。

女性についても性的少数者についても、この意見聴取作業そのものは決定的な行動にはつながらなかった。それでもこの取り組みは教皇がいかに、自分の立場のよりどころをローマや聖職者ではなく、世界中の信者の生活に置きたいと願っていたかを雄弁に物語っている。

複雑な業績

その在位中に教皇は、経済的や政治的に恵まれない人たちに手を差し伸べることに特に重点を置いた。自分の言葉と行動を通じて司祭たちに、恵まれない人たちにもっと寄り添うよう促した。

教皇は在位中ずっと、移民の尊厳の問題を重視した。キリスト教の他宗派や他の宗教、そして無宗教の人々との橋渡しも、同じように重視した。

カトリックの一部の伝統主義者からすると、教皇がそうして教会の外へ手を差し伸べることは、時にその立場にふさわしくないと思えることもあった。例えば2016年春に教皇が、ローマ郊外の難民センターを訪れた時などがそうだ。教皇はこの時、イスラム教徒、ヒンズー教徒、コプト教徒を含む難民の足を洗い、その足元に口づけをした。

教皇は、移民の強力な支援者になった。大勢が危険な旅の途中で命を落とした海に、花輪を供えたこともある。そして、気候変動の影響と貧困を結び付けた。

米連邦議会で行ったものを含むさまざまな演説や、特に重要な著作のひとつ「回勅ラウダート・シ――ともに暮らす家を大切に」で教皇は、環境破壊は富裕国が貧困国に危害を加えることに等しいと語っている(訳注:「ラウダート・シ」は「あなたはたたえられますように」という祈りの言葉)。

教皇は熱烈な反戦主義者で、紛争そのものが失敗に等しいと繰り返していた。

ガザでの戦争を「テロリズム」と呼び、停戦の実現を早く​​から懇願していた。

イスラム組織ハマスによって2023年10月7日に拉致されたイスラエル人の家族と面会しただけでなく、ガザのパレスチナ民間人、特に子供たちの窮状についても熱心に語り、ガザ市にある聖家族教会に毎日電話していた

しかし、橋を架けたいという教皇の思いがむしろ、不正行為に対して強い姿勢をとりにくくした、その妨げになることがあったと、そういう意見もある。

ロシアによるウクライナ全面侵攻を教皇がきっぱり非難しなかったと、批判する意見がある中国によるカトリック信者の監視と迫害にも、十分対処しなかったとも言われる。

さらにもっと身近な場所での不正に取り組むという、巨大な課題を就任当初から教皇は抱えていた。

カトリック教会の上層部には長年、腐敗が厄災のようにはびこっていた。就任から間もなく教皇は、ヴァチカンに関わる無許可の銀行口座を何千も閉鎖した。在任後半にには、財務の透明性に関する新規則を導入した。

カトリック教会の関係者による恐ろしい児童性的虐待にどう取り組むかで、自分は判断される。教皇がそう自覚していたことは、その対応ぶりからはっきり見て取れる。

「教皇職に就いた当初から私は、特定の司祭たちが犯したすべての悪事について責任を負うよう求められていると、そう感じていた」と、教皇は自伝「希望」で書いている。

この問題は今なお大きな問題として残っている。たとえばカトリック教会は2020年に、性的虐待の疑いが指摘されアメリカで存命の聖職者のリストを公開した。これには児童ポルノやレイプへの関与が疑われる聖職者も含まれており、人数は約2000人に上る。

「複数の聖職者が子どもを性的に虐待することで引き起こしたひどい危害、苦痛を伴う深い傷を作り出す犯罪について、教会は恥と悔恨の念とともに、許しを請わなくてはならない」と、教皇は書いた。

この問題への取り組みの一環として、虐待が起きていると知った教会関係者はそれを報告する責任があるという規則を、教皇は導入した。もし報告しなければ、解任される可能性があるという内容だった。

教皇は時に判断ミスを犯した。たとえば、性加害にきちんと対応しなかったと批判されている司祭を、公然と支持した。しかし、教皇は自分のミスや教会の深い欠陥について、速やかに謝罪する人でもあった。

ヴァチカンでも外国でも教皇は、教会関係者による虐待の被害者と頻繁に面会した。虐待について「謝罪」することが一番の目的だという外国訪問もいくつかあった。

教皇が残す影響の中で特に大きいのは、新しい枢機卿の任命を通じて、教会上層部の顔ぶれをがらりと入れ替えたことだ。

実のところ、次期教皇を選出する枢機卿の約80%は、教皇フランシスコが任命した。その人選で特に目を引くのは、顔ぶれの多様性だ。教皇フランシスコの在位中には、南アメリカ、アフリカ、アジア出身の司祭が次々と枢機卿になった。

欧州でカトリック教会が衰退する中、教会の重心を欧州から離し、教会が栄えている場所へ移動させ、その移動を教会の指導部にも反映させるというのが、教皇フランシスコの掲げた使命の一部だった。

その死後に追悼の言葉が世界中からあふれ出たことも、教皇が目指した重心の移動が奏功しつつあるという、一つの表れなのかもしれない。

(英語記事 Francis was a vocal critic of the powerful, his influence felt far beyond faith

提供元:https://www.bbc.com/japanese/articles/cd9lvgzwep2o


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