コラムの時代の愛−辺境の声−

2016年2月2日

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 死は生の結末ではなく、円環のように生と死が交互にやってくる。また生の中に死が入り込んでもいる。死は生の映し鏡であり、生がむなしいからこそ、死もまたむなしい。

アイデンティティーに隠された「しみ」

 なぜ、そうなのか。それは、メキシコ人は、ぼんやりとでも、自分の中に消しがたい「しみ」を隠しているからだ。自分自身を全面的に肯定できない傷、暗さを抱えている。

 それは、大多数の先住民が少数のスペイン人に犯され、隷属させられ「メキシコ人」を名乗らざるを得なかった運命から来ている。自分たちのアイデンティティーは「犯された女の子供たち」であり、恨む相手も敵も自分たちの中にいる。だから、楽天的にあっけらかんとは自己肯定できないーーというのがパスの説だ。

 同じ中南米でも、メキシコは先住民の犯され方が実に広く深かった。そんな歴史を背負い、生を無邪気に肯定できないからこそ、死を軽んじるというのだが……。

 これは1950年にパスが欧州で母国を思い書き記したエッセーであり、彼が見るメキシコ人の象徴的な特徴である。

 それが、ここ数年のカルテルの死者の扱いに合致するかどうか。カルテルのやり方は、パスの言う「死を茶かし、かわいがり」「大好きな玩具」というよりももっと陰惨で、単に死者を馬鹿にしているだけで、残酷さを誇示しているようにしか思えない。パスの洞察は、カルテルには通じないのかもしれない。

  
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