伊藤若冲や歌川国芳、曾我蕭白など、奇抜でユーモラスな画風ゆえに傍流とされていた画家たちを“奇想”というキーワードで再評価し、近世絵画史を大きく書き換えた辻惟雄氏。紋切り型の見方を打ち破り、伝統にモダンを発見した氏は、ユニークな視点で芸術に対座し続ける。
高井ジロル(以下、●印) 岐阜から東京の高校に転校して、意外にも大学は理系に進まれたとか。

辻 惟雄(以下「——」) 高2まで岐阜の高校にいたんですが、東大に入るために東京の日比谷高校に転入すると言い出した友だちがいたんですね。一緒にきてくれと言われて、親に相談してみたら、意外なことにOKが出て、編入試験を受けて日比谷高校に入りました。

 数学と理科が大の苦手だったんですが、医者だった親に理科を薦められて。父の跡を継ぐつもりで、東大教養学部の理科Ⅱ類に入学しました。それを条件に東京に行かせてもらったようなものだったので、ずいぶんがんばって勉強しましたね。語学が得意でしたから、それでなんとか、という感じです。

●文系少年ががんばって理数系に進んだわけですね。

インタビューに答える辻氏

——入ったはいいけど、理数系の授業についていくのは大変でね。高校でも絵を描くのが好きで図工の先生にかわいがってもらってましたが、大学でも美術サークルに入って絵を描いてばかり。学力は遅れる一方でした。

 さらに追い討ちをかけたのは、一年生の夏にかかった発疹チフス。東大病院に入院しましてね。40度の高熱が一週間続き、郷里から親も駆けつける大騒ぎとなりました。結局二年留年しましたが、医学部には進めませんでした。

●辻青年にとって第一の試練といった感じです。

——そんなとき、文学部に美術史という結構な学科があることを知って、そちらに進みました。昭和30年のことです。ガイダンスにいって、理科からこちらに来たいと言ったら、もったいないからやめなさい、と先生から諭されましたよ。当時は、文科から就職するなんてかなり難しい時代でしたからね。

 この頃は西洋美術に憧れていたんです。入院する前後にいろいろ考えるようになって、現代美術に興味を持ったんですね。特にピカソとかダリとか、意識下のものを描くようなシュールレアリスムに惹かれました。自分でもそういう絵を描いてみたけど芽が出ず、だんだんと見るほうにシフトしていきましたね。見てわかることと自分が作り出すこととは別だなと思いました。

 実を言うと、当時は画家になることにひそかに憧れていて、阿佐ヶ谷のデッサン研究所に通ったり、松本竣介を気取って、運河や工場をスケッチしたこともあります。芸大に受験し直すことも考えていたほどだったんですよ。

●西洋美術が好きだったのに江戸の美術研究に進んだのは?

——西洋美術史をやるにはやはりヨーロッパに留学しないといけないと思ったんですが、当時は1ドル360円の時代で、ものすごくお金がかかりました。それに日本の伝統美術はやる価値があると思ったのも事実。私は、当時の学生のご多聞に洩れずマルクス主義にかぶれていて、“人民の作った美術”に誇りを持つことが正しいと思っていた。共産党は当時、民俗の伝統や人民の作った美術に誇りを持て、と盛んにアジっていたんですね。私がいた駒場寮にはそういう思想に影響された学生も多かったですから。

 その頃、岡本太郎が雑誌『みずゑ』で縄文土器論を発表して、それにショックを受けたことも関係していたかもしれない。日本の美術の新たな可能性を示したもので、まったく日本的でないものが日本にあったという驚きがありました。

 菱川師宣で卒論を書いて、親父の許しをもらって大学院に進んで、何を研究しようか、という段になった。指導教官は、助教授になったばかりの山根有三先生。弟子は私ひとりで、先生も赴任したばかりだから指導にかなり熱がこもっていましたね。この山根先生が、研究テーマに選んでみてはどうかと教えてくれたのが、岩佐又兵衛でした。江戸時代のはじめの、変わった経歴を持つ画家で、のちに浮世絵の元祖と呼ばれます。

●又兵衛は、子どもの頃に織田信長に母親を殺された人なんですね。

——ええ。父は伊丹の戦国大名・荒木村重です。当初は信長の家臣だったのに反旗を翻して信長の怒りを買ってしまった。

伝 岩佐又兵衛勝以「重要文化財 山中常盤物語絵巻」道行の場面のうち、部分(MOA美術館所蔵)

 又兵衛が描いたと伝えられる絵巻が数種類、現在のMOA美術館にあります。なかで「山中常盤〔やまなかときわ〕」は、牛若丸が盗賊に殺された母・常盤の仇討ちをする物語。仇討ちの場面がクライマックスです。「浄瑠璃物語」は、牛若丸が浄瑠璃姫と一夜の契りを結ぶまでを執拗なまでに細かく描いた金銀極彩色の絵巻。大御所の先生が、こんな品のない作は又兵衛ではないといって、当時大論争があった。山根先生は否定説に懐疑的だったんです。それで「お前やってみろ」といわれた。

 いざ絵を見ると、「山中常盤」の血腥いリアルな描写、「浄瑠璃物語」の恐るべき細密描写に圧倒されました。「山中常盤」の賊を皆殺しにする場面を見た後、弁当のシャケの切り身が食べられなかった。

 その研究成果を山根助教授の上司であった米沢嘉圃教授の前で発表したのですが、これら又兵衛筆と伝える絵巻群はみな又兵衛の作だと主張したら、鑑識の達人であった米沢教授は「絵巻はどれも線が違う。君はもう一年かかるね」といって去ってしまわれた。

●ズバッとダメ出しされてしまったわけですね。

——悔しかったけど、そう言われて見直すと、たしかにみんな手が違う。線が違う。つまり、線が作り出す形や表情といったものが、確かに違っているんです。私はこのとき、米沢先生に、鑑識とはどういうものかについて、眼を開かさせていただいたと思います。美術史学には鑑識が非常に重要。論文ににせものを載せたりしたら大変なことになりますからね。言ってみれば、いつも鑑識の手間に煩わされるのが美術史家というものなんです。そのことを如実につきつけられたのがこのときでした。何とか、卒業はできましたけれども。

 米沢先生にしぼられたのが昭和30年。それから約50年たって、『岩佐又兵衛 浮世絵をつくった男の謎』という本を書きました。又兵衛論の総決算。本人の作として間違いのない作品とそうではないものを一つずつ確認していく作業をやり続けて、最後に残るものを、帰納的というよりは演繹的な方法で導き出した。「山中常盤」の常盤殺しの部分は又兵衛だと確信しています。賊が殺される場面は、下絵を又兵衛が描いたところ、弟子といっしょに描いたところ、一番弟子が描いたところ…といろいろでしょうね。

●誰が描いたものか、そんなに細かくわかっちゃうものなんですか?

——図版で見てもわからないけど、実物を見ると見えてくるものがあります。簡単にいえば、線が作り出す形、表情の問題。これは、たくさんの絵を見てきたという体験がないと言い切れない種類のもの。要するに、直感です。直感は学問の上でも大事なもの。実証だけでは学問は成り立ちません。たとえば考古学でも、状況証拠を集めただけではだめで、そこに直感が働かないと学問にはならない。何度も現場に立ち会ってきた人の直感と、初めて現場に立ち会う人の直感は違うということです。直感だけではもちろんだめで、文献の考証も大事なわけですが。

 ところが、修行をした坊さんが皆同じ悟りの心境に至るかというとそうでもないように、鑑識の判断も違ってくることがある。まあ、私に言わせれば、それはやっぱりどちらかの人の修行が足りないんであって、同じレベルに達すれば同じ結論になると思うんですけどね。

 又兵衛の場合は、分類的な方法で詰めていって、最後に真筆をあぶりだした。その後、文化庁が「山中常盤」「浄瑠璃物語」を重要文化財に選定したのはうれしい出来事でした。

『奇想の系譜 又兵衛――国芳』(ちくま学芸文庫)。1988年、ぺりかん社から出版されたこの本は、刊行時、絵画史を書き換える画期的著作としてセンセーションを巻き起こした。

●そして姿を現す先生の代表的キーワード、「奇想」は?

——岩佐又兵衛の後、狩野山雪、曽我蕭白〔しょうはく〕、伊藤若冲〔じゃくちゅう〕、長沢蘆雪〔ろせつ〕、歌川国芳と、奇抜で風変わりな江戸時代の画家たちが私の頭のなかでひとつのラインになってきたところで、当時美術出版社の名物女性編集者から、連載のお話をいただきまして、著書『奇想の系譜』が生まれました。この本が出たのは1970年、私が38歳のことです。

 「奇想」という言葉は、鈴木重三先生の「国芳の奇想」というエッセイからいただきました。「異端の系譜」というタイトルも考えましたが、どうも「異端」と言ってはおもしろくない。迫害された画家たちというイメージがつきまとう。だが、彼らは決して迫害されておらず、時代の寵児として歓迎されていて、むしろ主流だったわけでね。山雪のように、異端の雰囲気を漂わせているものもありますが、グロテスク・ユーモアというか、画家の茶目っ気を感じさせるものが多いんです。

 当時、この本の売れ行きはそれほどではなかったのですが、反響はかなりあって、あちこちに書評が出ました。だいたいは、紹介した作品のグロテスクな面、血なまぐさい面に関心を寄せていた。いま読んでみると、私自身がグロテスクの面に強く惹かれていたことがわかります。

●もともとグロテスクなものに惹かれるところがあったんですか? 

——いえいえ、実はそうでもないんですよ。僕はノーマルな感覚の持ち主だと思っています。江戸の画家で誰が一番好きかと聞かれますけど、俵屋宗達ですから。ああいうのが本当は好きなんです。だけど、学者としての、学問上のプロフェッショナル意識からすると、又兵衛は見れば見るほど興味を持たざるをえない人だと思いますね。生い立ちも特別ですし、形のゆがみも特徴。私は、デフォルマションというか形のゆがみにはけっこう敏感なほうですが、又兵衛にはそういう要素があって、おもしろい。単にグロテスクだから好きだというわけではなくってね。

 私が美術作品にひそかに望むのは、意表をつかれたいということなんです。眠っている感性と想像力が一瞬目覚めさせられ、日常性から解き放たれるような喜びを感じたい。「奇想」というのは、そのようなはたらきを持つ不思議な表現世界を指すために使っています。

 自分から奇想の画家を捜そうなんて思っていたわけでは全然ありませんよ。でも、日本美術一般、江戸時代の絵画史に対する当時の見方を不満に思っていたのは事実ですね。ダリとかピカソとかキリコになじんだ者にとっては、「わび」「さび」一辺倒の理解ではちょっとつまらないな、と。日本にだって、そういうおもしろい人がいないはずはない、とは思っていました。そういう気持ちがあったからこそ、変わったのがいるよと教えられて又兵衛にとびついたんでしょうね。 

※後篇は4月26日(月)公開予定です。

◎略歴
■辻 惟雄〔つじ・のぶお〕東京大学・多摩美術大学名誉教授。現在、MIHO MUSEUM館長。1932年名古屋市生まれ。伊藤若冲ら、これまで注目されなかったユニークな画家たち“奇想の画家”と名づけ、その系譜への再評価を促した。今なお、日本美術界に与える影響は大きい。

「WEDGE」 5月号より

 

 

 

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