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あくがれ――わが和泉式部
水原紫苑 著

目次 立ち読み

 平安朝中期、越前守・大江雅致の娘として生まれ、和泉守橘道貞と結婚した和泉式部は、夫のいる身で、冷泉院の第三皇子・為尊親王と身分違いの恋に落ちる。親王の病没後、あらがえぬ宿命に導かれるかのように、為尊親王の弟・敦道親王(帥宮)とも深い仲となる。
帥宮と和泉式部の「恋のゆくたて」は、「和泉式部日記」に物語風にしるされている。二人がかわした多数の和歌が、恋の駆け引きを華麗にいろどり、うつろいゆく心理を如実にうかがわせる。
和泉式部は、夫・橘道貞とのあいだに子(小式部内侍)をなしたが、道貞とは別れ、親にも勘当される。和泉式部は、やがて宮邸に召人として仕え、帥宮の側で暮らすことになる。帥宮とのあいだにも若君が生まれるが、帥宮も兄・為尊親王とおなじく若くしてこの世を去る。
和泉式部は、その恋愛遍歴から「浮かれ女」(藤原道長)、「けしからぬ」女(紫式部)と周りから評されたが、和歌の才能は当代随一を謳われ、勅撰和歌集に計246首の歌が採られた。
本書は、歌人水原紫苑が、和泉式部と帥宮との「はかない恋」に焦点を合わせ、和歌の解釈をまじえつつ、和泉の生涯をたどった書き下ろしの物語。引用歌は、約180首。

<書籍データ>
◇B6判並製、236頁 
◇定価:本体1,400円+税
◇2012年5月18日発売

<著者プロフィール>

水原 紫苑(みずはら・しおん)
歌人。横浜市生まれ。早稲田大学仏文修士課程修了。一九八九年、第一歌集『びあんか』刊行。現代歌人協会賞受賞。第三歌集『客人(まらうど)』で第一回駿河梅花文学賞受賞。第四歌集『くわんおん(観音)』で第十回河野愛子賞、第七歌集『あかるたへ』で第五回山本健吉文学賞・第十回若山牧水賞を受賞。その他の歌集に『うたうら』『いろせ』『世阿弥の墓』『さくらさねさし』『武悪のひとへ』、エッセイ集に『京都うたものがたり』『歌舞伎ゆめがたり』、小説集『生き肌絶ち』など多数。春日井建に師事、師の没後単独で活動。日本の古典芸能に造詣が深く、自らも謡曲・仕舞を稽古する。

 

 

 

<立ち読み>

和泉式部は、貴船明神に詣でるための、長い長い坂道を上っていた。
摂津の国守藤原保昌の北の方ともある身が、供も連れず、独り、初夏の闇を行くのは、いかにも異例であった。
汗ばむ体は、五十を過ぎてなお、自分自身にも未知のものを残していた。
(中略)
木々のさやぎと共に足が進んだ。
貴船明神は水の神である。上る身とは逆に、貴船川の流れが、道のかたわらを音を立ててたぎり落ちて行くのだった。
この神に、男女の仲の願いをかける者は多い。和泉もまたそうであるのか、おのれに問うても答えはなかった。
「浮かれ女」と呼ばれるほど、数多の恋を経た身であった。しかし、なお女でありながらさだ過ぎた今、この胸を騒がせてやまない物思いとは、恋であるのか。恋とすれば、それはひとりに向けられたものではなく、誰を想うともない恋の源、おのれを離れて、彼方にあくがれ出てやまない魂であった。
そして、また、おのれは男という男から、既に忘れ去られた者であるという、女の老いのすべない悲しみも兆していた。黒々とした万緑の中を行く身が、いつにも増して生き生きと在ることは皮肉だった。
女の足にしては、ただならない速さで明神の社に辿り着いた。灯火に仄かに照らされた境内は、無人のようであった。
神に祈ろうと一歩を進めた時、社前の川の流れに舞い遊ぶ螢がひらりと来て、和泉の体を光に包むようにまつわりついていた。

  物思へば沢の螢もわが身よりあくがれいづる魂かとぞ見る

 考えるいとまもなく、一首が口をついて出た。
この歌は、「男に忘られて侍りけるころ、貴船に参りて、みたらし川の、ほたるのとび侍りしを見て」という詞書で、後拾遺和歌集に収められている。男は保昌との説もあるがわからない。手洗川は、社前を流れる、貴船川の支流である。
いかにも和泉式部らしい歌として、広く知られた一首は、しかし、和泉式部歌集正続のいずれにもない。
そのため、和泉の真作ではないとも言われる。
だが、まことの和泉式部は、仮にそう呼ぶべき存在があったとして、どこに生の境界をおくべきなのか、誰も知らないのである。それは、和泉自身にも、あるいはわからぬことであったかも知れない。
和泉式部はただ、螢の光に包まれた身から、遠く時空を離れてゆくおのが魂を、月に呼ばれた障りの血潮のように、ゆくりなく感じるのみであった。その時、螢は魂であった。

 

(続きは本書でお読み下さい)

 

 


<目次>

 

序―――奔り去るもの 立ち読み
破の章 くらきより 
一 つれづれと 二 黒髪の乱れ 三 心はちぢに 四 さも中空に
五 逢ふに命を 六 なびき藻の 七 天上の香  八 あかき蓮の  九 独りの闇

急の章 ほととぎす 
一 薫る香の    二 物を思ふ朝   三 待ちとる岸   四 窓うつ雨
五 暁起き     六 空行く月    七 今ひとたびの  八 有明の月
九 白露も     十 手枕の袖    十一 月はしも見ず 十二 君来まさなん
十三 物ぞかなしき 十四 夢になさばや 十五 葛の葉    十六 花ぬす人
十七 冬紅葉    十八 処女の宮   十九 忍び音    二十 暁の恋

畢―――あくがれ 
跋 

 

 

 

 

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