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ヒトはなぜ病気になるのか
長谷川眞理子 著

目次 立ち読み


人体というこの「精密機械」はどのようにしてできたのでしょうか?

地球が誕生したのが四五億年前。そして四〇億年前に地球上で生命が生じました。そして進化により、最初に出現した生物からさまざまな種類が分化していきます。

ヒトは、およそ二〇万年前に出現しました。現在の私たちのからだのすべては、過去から連綿と続いてきた進化の産物です。ある日突然、なんらかの完璧な設計図をもとに作られた機械ではありません。なぜ指が五本あるのか、なぜ直立二足歩行するのかも、それ以前の過去のいきさつからそうなっているのです。

また、生物は環境の中で生きており、その環境にはさまざまな他の生物がいます。それらの他の生物との関係には、食う・食われるの関係、互いに依存する共生関係など、さまざまなものがあります。その中の一つが、寄生者と宿主の関係で、細菌やウィルスが原因で起こる感染症は、このような寄生者が私たちに取り付いてくることで起こります。

椎間板ヘルニアはヒトが直立二足歩行を始めたのが原因で、いわゆる五十肩はヒトが樹上生活を辞めて地上で生活するようになったのが原因です。

こういう風に見てみると、病気とは、あるべき設計図からずれた状態、あり得べからざる状態なのではなく、進化の過程でこの体が作られてきたいきさつに伴う、何らかの自然現象なのです。では、なぜこのようなことが起こるのでしょうか? 

進化生物学の目で、人間のからだの仕組みや病気を見ると幾つもの新たな発見があります。それをやさしく、わかりやすく解説したのが本書です。

<書籍データ>
◇B6判 並製・206頁
◇定価:本体1,400円+税
◇2007年5月22日発売

<著者プロフィール>
長谷川眞理子
(はせがわ・まりこ)
1976年東京大学理学部生物学科卒業。83年同大学院理学系研究科博士課程修了。理学博士。早稲田大学政治経済学部教授を経て、総合研究大学院大学教授。進化生物学専攻。著書に『クジャクの雄はなぜ美しい?』(紀伊國屋書店)、『進化生物学への道』(岩波書店)、『ダーウィンの足跡を訪ねて』(集英社)、訳書に『人間はどこまでチンパンジーか』(新曜社)他数。

はしがき

病気にかかると、お医者さんに行って治してもらいます。治ると、「元気になった」といいます。元気である状態を「健康」といいます。また、「正常と異常」という区別の仕方もあります。「病気」は「異常」な状態で、「健康」は「正常」な状態に対応しているのでしょう。病気ではなくても、奇形や先天性の欠損など、ヒトの集団として通常みられるのではない状態にあることを「異常」と言います。

これは、医学という、ヒトの病気を治して健康な状態にとどまらせることを目的とする技術の業界では、ごく普通に使われている言葉です。「病気」とは、しかし、どういう状態をさすのでしょう?

「病気と健康」、「正常と異常」という言葉は、明らかに価値観を伴っています。「赤い、青い」や、「堅い、柔らかい」などと同様の、価値中立的な言葉ではありません。病気や異常は「悪い」ことで、健康で正常であるのが「良い」ことなのです。それはなぜかと言えば、当然ながら私たちは、健康であるときこそが気持ちよく、病気になると気持ちがよくないからです。赤いコップと青いコップを見ても、好みは別としてとくに何という強い感情もわきませんが、健康は明らかに快であり、病気は明らかに不快です。これは万人に共通の感情であり、誰もが健康でありたいと願っています。そう考えると、病気は、あってはならない状態、何がなんでも治したいもの、即刻おさらばしたいものということになるでしょう。

医学は、そういう私たちの感情と価値観とに忠実に、あってはならない状態の「病気」というものを根絶しようと努力してきました。そうして、確かにかなりの成果を上げてきました。とくに、二〇世紀半ばの抗生物質の発見以来、感染症の克服には目を見張るものがあります。それでも、感染症はなくなりません。天然痘は根絶できたかもしれませんが、私たちは相変わらず、毎冬、風邪に悩まされます。そして、ガン、各種の生活習慣病、エイズ、そして精神疾患などなど、健康を脅かす悩みの種は、いまだに尽きることがありません。そもそも、なぜ病気というものがあるのでしょうか?

医学は、人間の生活に病気があることは当然の現実と受け止め、それを根絶することに精魂傾けてきました。でも、なぜ病気というものが存在するのか、という根源的問いは、伝統的な医学の範疇にはありませんでした。これは、生物学との大きな違いです。

生物学は、生命現象を解明しようとする自然科学です。純粋な理学としての生物学は、とくに応用を目指すものではありませんから、自然の状態に価値観を持ち込むことはしません。したがって、生物学から見れば、健康も病気もそれぞれ一つの状態であり、どちらがいいも悪いもありません。また、正常と異常のように分けようとしても、生物の性質は、何をとっても個体差があって、決して二つと同じ個体はありません。そのような変異の幅、ばらつきの存在そのものが、生物学の研究対象です。そうすると、なぜ病気が存在するのかという疑問は、生物学では当然の疑問となります。

私は、東京大学理学部生物学科に進学し、学部の三、四年生では人類学を専攻しました。つまり、私は理学部出身の自然科学者です。当時の人類学教室では、医学部と一緒に基礎医学を習うのが必修でしたので、医学部に出かけていって、解剖学、生理学、発生学などを勉強しました。そのときの教科書の一つ、『人体発生学―その正常と異常』というタイトルを今でも鮮明に覚えています(教科書も、まだ持っています)。医学では当たり前なのでしょうが、生物学出身の私には、「正常と異常」という、この、あまりにもあからさまな二項対立のレッテルづけには、たいへんな違和感がありました。

本書では、従来の医学の目ではなくて、客観的な生物学の目で、病気と健康を考えてみようと思います。それは、生物学の中でも、生物の進化を考える、進化生物学の目による見方です。(続きは本書でお読みください)
<目次>

はしがき

第1章 病気はなぜあるのか?

生物の進化の歴史
進化とは何か
大進化と小進化
適応とは何か
適応を生み出す自然淘汰
遺伝子と環境の影響
生き物をめぐる四つの「なぜ」
「病気」の種類 

第2章 直立二足歩行と進化の舞台
地上から樹上、再び地上へ
腕の可動性
森林の中で立ち上がった人類
サバンナへ
サバンナでの生活
サバンナは暑くて水が少ない
汗をかく
直立二足歩行のための構造変化
椎間板ヘルニア
五十肩
鼠径ヘルニア
ペニスと精巣をつなぐ奇妙な配管
精巣が下がる経路

第3章 生活習慣病
狩猟採集生活
運動
栄養
農耕の始まりから現代社会へ
三つの基本栄養素
長期的モニターの欠如
最近の食料事情と運動事情
「節約遺伝子」
人類の進化史における飢饉の頻度

第4章 感染症との絶えざる闘い
寄生者と宿主の関係
人類の歴史と病原体の進化
はしか
おたふくかぜ
インフルエンザ
寄生者と宿主の進化的軍拡競争
寄生者の寄生戦略とからだの防御反応
病原体の寄生戦略
病原体と宿主の共進化
突発出現ウィルスの進化
薬の功罪

第5章 妊娠、出産、成長、老化
妊娠の成立と維持をめぐる攻防
母親と胎児の「蛇口の開け閉め戦争」
出産
出産に適した環境
脳の大型化と難産
「子ども」の誕生
閉経と「おばあさん」の不思議
ヒトの共同繁殖と「おばあさん仮説」
ヒトにおける相互扶助

あとがき
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