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明治の建築家 伊東忠太 オスマン帝国をゆく
ジラルデッリ青木美由紀 著

目次 立ち読み

 

築地本願寺、靖国神社神門・石鳥居、湯島聖堂、平安神宮、震災祈念堂、一橋大学兼松講堂、大倉集古館、祇園閣……これらを設計し、「建築」という言葉を提案した伊東忠太(1867-1954)。1902年3月から1905年6月まで、国費で世界旅行を単身敢行。日露戦争が勃発するも、敵国・ロシア船で地中海を渡り、時にスパイと疑われつつ、オスマン帝国スルタンから勲章を拝領する。
忠太と同じように世界を股にかけて旺盛な研究活動を展開する気鋭の美術史家が、初公開・新発見資料とともに、日本の近代化の一翼を担った建築家の知られざる旅の見聞録を繙く。

<書籍データ>
◇四六判上製 344ページ
◇定価:本体2,700円+税
◇2015年12月20日発売
◇ISBN: 978-4-86310-157-9

<著者プロフィール>
ジラルデッリ青木美由紀(じらるでっり・あおき・みゆき)
1970年生まれ、美術史家。早稲田大学大学院博士課程単位取得退学。トルコ共和国国立イスタンブル工科大学博士課程修了、文学博士(美術史学)。イスタンブル工科大学非常勤准教授補。『芸術新潮』「大特集:永遠のイスタンブール」(2012年9月号)企画・コーディネート・執筆。共著に『万国博覧会と人間の歴史』(佐野真由子編、思文閣出版 2015年)がある。イスタンブルを拠点に、展覧会キュレーションのほか、NHK BS「世界遺産 時を刻む」、BS日本テレビ「中谷美紀トルコ紀行」の案内役など、テレビ出演でも活躍中。
 

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<立ち読み>

 

数年前の十二月のある日、筆者はイスタンブルの日本総領事館で行われた天皇誕生日レセプションに出席していた。
宴も果てて、人々がそろそろ帰りかけた頃、老婦人、と呼ぶにはまだ早い年頃のひとりのトルコ人女性が目にとまった。胸に菊を象った七宝のブローチをつけている。日本の勲章、外国人に贈られる旭日小綬章だ。
軽い気持ちで尋ねてみた。「お見受けしたところ、日本の勲章をつけていらっしゃるようですが、日本とどのような関係がおありなのですか」と。
女性はまっすぐこちらを見て、ふっと微笑んだ。
「八〇年代にイラン・イラク戦争があったとき、テヘランに日本人が置き去りにされたのをご存知ですか」。
知っている。一九八五年三月十七日、四十八時間の猶予期限以降イラン上空を飛ぶ飛行機はすべて撃ち落とすとサダムが宣言し、他の各国は自国の飛行機で退去したのに、日本は航空会社の労働組合が拒否して救援機を送れず、二百人以上の日本人がテヘランで立ち往生した事件だ。あの時はたしか……。
すると女性は姿勢を正し、こういった。
「そう、あのとき私は、日本人を救出にいったトルコ航空の飛行機にいた、乗務員だったのです」。
話を聞きつけて、彼女の友人たちがまわりにやってきた。「そう、私も」。「私も」。
日本とトルコのあいだの伝説のように語り継がれた話を、現実として生きた人が目の前にいる。鳥肌が立った。
品のいい老紳士がいった。「私がパイロットでした」。
「テヘランへ行くことになった時、怖くなかったのですか」と尋ねてみた。パイロットの紳士は、「いいえ。行かせて下さい、と自分からいいました」。そして、こう続けた。「日本人は、百年前、エルトゥールル号が遭難したときに、トルコ人を助けてくれたでしょう、こんどは私たちの番だと思ったのです」。
ああ、私たちは積み重ねられた歴史のなかにいるのだ、と思った。そのことを自然に受け入れて行動できるのは、尊いことだ。二〇一五年はその事件からちょうど三十年。エルトゥールル号事件から数えて、百二十五年にあたる。
そして、日本とそんな不思議な縁のあるトルコという国を、百十年前に旅した物好きがいた。本書の主人公・伊東忠太(一八六七‐一九五四)である。
山形の米沢に、「ネッチョ」という言葉があるという。
道路の両端に二メートルほど積み上げてある、雪深い米沢を訪ねた時に聞いた。
「粘り強く、熱心に頑張り通す」というような意味だそうだが、一言でいうなら、伊東忠太こそ、「ネッチョ」なやつかもしれない。
「建築」という言葉を提案し、われわれ日本人の言語生活に定着させた人物。
明治時代、建築を研究するためだけに世界を一周した、酔狂な男。
「ネッチョ」の一念で〝前例がない〟と渋る上層部を説得し、費用を国費で賄わせて敢行した、三年三ヶ月におよぶ世界旅行。一九〇二年三月から一九〇五年六月まで、留学先は、正式には「中国・印度・土耳古」とされた。
明治の新学制で教育を受けた第二世代の建築家、日本最初の建築史家、建築世界旅行の遂行者、東京帝国大学教授。妖怪を愛し、多くの妖怪を描き、嵩じて妖怪について〝最初の〟学術的論文を執筆した趣味人、軽妙洒脱な戲画を得意とし、築地本願寺の設計者であり、建築家として文化勲章を授勲した最初の人物……。
本書は、伊東忠太の、挙げればきりがない広範な経歴と業績、八十七年間の長きにわたる生涯のうち、ほんの八ヶ月半を切り取ったものである。
忠太がオスマン帝国で過ごした八ヶ月半。
イスタンブルでスルタンから勲章を拝領し、灼熱のアナトリアで臭虫に悩まされ、日露戦争中にロシア船に乗って地中海を渡る……彼の行動範囲は、現代の国境でいえば、トルコ共和国はもとより、ギリシャ、エジプト、イスラエル、パレスチナ、レバノン、シリア、ヨルダンに跨がる。これらの地域は、いま、出口の見えない争いのさなかにある。
「法隆寺建築の源流はギリシャだ!」という自説を証明するため、単身乗り出した世界旅行の途上、八ヶ月半を過ごしたオスマン帝国で、何度も挫けそうになりながらも、明治の建築家が獲得しようとしたもの。それは、激動の政治状況のなかで、急務として確立を迫られた、当時の日本人としての世界観であり、それに基づいた建築観だったのではないか。

伊東忠太はその生涯にわたり、七十六冊の「野帳」(フィールドノート)を遺している。遺族によって寄贈され、現在日本建築学会建築博物館に大切に保管されている野帳は、日本近代建築史の第一級資料である。多くが丸善市販のおよそ縦十六センチ×横十センチの同型で、ひとつひとつ、丁寧に自らの手で装丁され、自筆で表紙・標題がつけられ、さらに特注の木製ケースに収められている。
足掛け三年三ヶ月におよんだ世界旅行の途上で書かれた野帳は全十二冊。野帳全七十六冊の、最初の十二冊である。このうち、オスマン帝国領内で書かれたものは四冊におよぶ。単純計算すれば、全旅程のほぼ三分の一である。
旅行中、忠太の上着のポケットで、あるいは手鞄のなかで一緒に旅をし、おそらく何千回となく出し入れされた野帳は、四隅が擦り切れながらも、忠太と一緒に日本へ帰国した。
帰国後も、ことあるごとに取り出され読み返されただろう野帳は、約百年後の二〇一〇年、「トルコにおける日本年」をきっかけに、はじめてトルコへ、すなわちそれが記載された地へ、里帰りした。忠太のポケットから出て博物館の資料となってからは、初の海外旅行である。イスタンブルで行われた展覧会「三日月と太陽 イスタンブルの三人の日本人 山田寅次郎・伊東忠太・大谷光瑞 」(原題:HİLÂL ve GÜNEŞ İstanbul,da Üç Japon Yamada Torajirō, Itō Chuta,Ōtani Kōzūi)で、野帳に披歴された忠太のトルコ観察は、イスタンブルの人びとに再び邂逅した。

忠太が見た百年前のトルコは、どんな姿をしていたのだろう。
トルコを、世界を見た忠太は、何を考えたのだろう。そして、そんな若者がひとり、闊歩したのは、どんな時代だったのか――。
明治の建築家が模索した世界観を求めて、忠太とともに、われわれも旅に出よう。ひとまずの行き先は、イスタンブルである。


 



<目次>

はじめに 
第Ⅰ章 ガラタ橋の上で ――忠太、イスタンブルをゆく
第Ⅱ章 伊東忠太とは誰だろう?――明治日本の「建築」誕生
第Ⅲ章 「回教/イスラム」建築初体験
第Ⅳ章 伊東博士、 イスタンブル建築を斬る
第Ⅴ章 忠太、 スルタンより勲章を拝領する
第Ⅵ章 イスタンブルの日本人――忠太と中村商店の仲間たち
第Ⅶ章 忠太、 ロシア船で地中海を渡る
第Ⅷ章 灼熱のアナトリアで、 痒し痒し
第Ⅸ章 スフィンクスと奈良の大仏―― 忠太のエジプト建築見聞
第Ⅹ章 忠太、「アラビア芸術」に迫る
第Ⅺ章 新月東帰、 紅雲西去
終 章 青雲語る日々は遠く
おわりに

 

 

 

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