トップランナー

2009年2月20日

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助かったのは意味がある、
第二の人生は同じことをしたらいかん。

 「みんな、なりたい自分を持ってるんやけど、できんかったときの言い訳を考えたり、どうせやってもダメやろうって言ったりして、日々努力するのはしんどいから手を抜いて、だらだら生きてる人は多いですよね。それなのに、頑張らないことを自慢げに言ったりしてる。『頑張ってる』って自信を持って言うことは、絶対に大事やと思います」

 必死になれない自分、ダメなままの自分を、他人に見せても平気などころか、一種の個性として売りにしている人も珍しくない。働き蜂は行き過ぎだろうが、頑張ることを諦めたような生き方が肯定的に受け止められるのはおかしいと、廣道純は感じている。

 廣道は、プロの車椅子ランナーだ。現在、日本記録を3つ持つ第一人者で、シドニー、アテネのパラリンピックでメダルを獲得し、表彰台に上れなかった北京の悔しさを晴らさんと、3年後のロンドンを目指す。しかし、かく言う廣道も15歳までは、努力して目標を越えて……というところとは、対極の生き方をしていた。

廣道 純(ひろみち・じゅん)
1973年生まれ。15歳の時の事故で車椅子生活となる。会社勤めをしつつ車椅子レースに出場。パラリンピックではシドニー800メートル銀メダル、アテネ800メートル銅メダル。2004年よりプロランナーとして独立。 (撮影:田渕睦深)

 「夜遊んで、朝ひょこっと家に帰って、風呂入ってから学校に出かけて、学校で寝るという生活でした。中学からアルバイトをして、親に小遣いもろうてなかっただけなのに、『俺は誰にも迷惑かけずに一人で生きているんやから、ほっといてくれ』って強がってました。我慢も努力もせず、好きなことだけやって、こんなもんかとなめてました」

 そして高校1年生のとき、バイクの無免許運転で転倒し、脊髄を損傷。下半身が麻痺する大怪我を負った。

 「病院で麻酔が醒めたら、おやじがベッドの上から覗き込んでいた。『迷惑かけてない』っていうのが、勘違いの思い上がりやったと気付かされました。本当やったら、そこで人生は終わっているわけですよね。『価値のない生き方をしてたのに、何で助かったんやろう』って考えました。『死んだほうがましやったんかも』とも思いました。あれこれ考えて、助かったということは意味があるんやから、第二の人生は同じことをしたらいかんなって」

 事故から数カ月経って、足は一生治らないと聞かされたとき、廣道は「じゃあ、自分の車椅子つくって、すぐ退院しようや」と即答したという。葛藤はなかったのかと思わざるをえないが、切り替えが速く、後ろを向かず常に前のことを考える廣道の性分に加え、これからをいかに生きるかという意識が強くなっていたことが、そう答えさせたのかもしれない。

 リハビリ中に車椅子ランナーの練習を見て、そのスピードに「カッコいい」と興奮した廣道は、自身もレースにのめりこんでいく。カテゴリーによるが、世界トップクラスの車椅子ランナーは42.195㌔をおよそ1時間20分で走り、平均時速でも30㌔をゆうに超える。17歳で住み慣れた大阪を単身離れ、神戸で障害者用の職業訓練校に1年通ってから、そのまま神戸で就職。後に大分に移り、30歳でプロになるまで、配管設計会社や車椅子販売会社などで働き、勤務時間外に練習しながらレースに出場し続けた。

 「車椅子の販売は、一人事務所の支店長みたいなもので、営業、商品の注文、配送から雑用まで、全部自分でやったから、結構大変でした。でも、めっちゃ楽しかった。営業で病院を回って、車椅子になったばかりの患者さんに出会って、自分が怪我してからの経験とか、レースの結果とかの話ができて、週に1回僕が営業に行くのをその人らが楽しみに待ってくれるようになって。子どもの患者さんたちの表情も明るくなって、お母さんも喜んでくれた」

 レースでは「何分で走るぞ」「あの人に追いつくぞ」と目標を定めては乗り越え、一つずつステップアップしてパラリンピックが視野に入ってきた。仕事でも、一人でも多くの患者さんに喜んでもらおうと、汗かき日参した。廣道は怪我をしてから、「こうなりたい」と手に届きそうな目標を立て、そこに向けて努力を惜しまず、目標を達成しては次を目指すという生き方に変わった。そうやって濃く生きなければ、第二の人生、損してしまうと言わんばかりに。

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