個人美術館ものがたり

2011年7月12日

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赤瀬川原平 (あかせがわ・げんぺい)

画家、作家

1937年、神奈川県生まれ。60年代にネオ・ダダイズムなど前衛芸術運動に参加。80年「尾辻克彦」名の『父が消えた』で芥川賞を受賞。『散歩の学校』『昭和の玉手箱』『千利休 無言の前衛』など著書多数。

この連載中、いくつかの取材先で「大原美術館にならって」という声を聞きました。
出資者と奨学生という邂逅から実を結んだ二人の男の濃密な親交による果実は、個人美術館の関係者にとってまさに好個の例として今も輝いているようです……。

  大原美術館は個人美術館の元祖のようなものだ。倉敷にこの美術館が出来たのは1930年で、そのころはそもそも美術館が日本にほとんどなかった。西洋美術への関心が広がって、はじめて美術館という施設が必要になってくる。

 大原美術館の創立者は大原孫三郎。大原家はこの土地の昔からの大地主で、紡績その他の事業も幅広く営んでいる。そういう家の御曹司だ。その立場が大きいだけに、美術館の成り立ちは少し違う。

 個人美術館はいまではたくさんあるが、その多くは個人の趣味が高じて美術館にまで到達したものだ。でも大原美術館の場合は、孫三郎の趣味からではない。それよりも福祉というか、慈善というか、世のため人のためという思いから蒐集が始っている。基盤としては倉敷紡績の事業があるのだけど、そのほかに病院や農業研究所など公益性の高い所に多く投資している。その一つに奨学金制度があって、その奨学生となる児島虎次郎と孫三郎が出合ったのがそもそものきっかけだった。虎次郎21歳、孫三郎22歳というから、若い。

 以後虎次郎は大原のバックアップもあって画家への道を歩むが、ヨーロッパ留学中に実感した西洋美術からのナマの刺激を、ぜひ日本にも紹介したいと思い、現地からいくつかの作品の購入を孫三郎に打診する。

 孫三郎の個人的な趣味はむしろ日本の古美術の方にあり、そのコレクションもあるが、西洋美術はまた別のことだった。でもそれが日本の画家たちのためになるのならと、徐々にその購入を容認していき、次第に大原コレクションが形を成していく。

左から、大原孫三郎(1880~1943年)と児島虎次郎(1881~1929年)

 その際孫三郎は、金は出すが口は出さないというスポンサーとしての理想的な形を通している。孫三郎はこの美術館に限らずほかの福祉事業にしても、これと見込んだ人物にすべてをまかせて、あとは出資だけをしたようだ。

 でも若いころはずいぶん遊んだらしい。上京した学生時代に放蕩の限りを盡〔つく〕して、郷里に連れ戻される。一説には借金の額がいまでいう一億円、という話もあって、やはりはんぱではない。でも帰郷後身内に不幸(1)があったりして本気で謹慎し、その間に岡山孤児院の石井十次〔いしいじゅうじ〕(2)に会い、地位にあるものの奉仕活動に目覚める。

(1) 孫三郎の債務処理にあたっていた義兄が急死した。
(2) 1865~1914年。日本で最初に孤児院を創設したキリスト教社会事業家。

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