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2009年4月3日

人間って、
ものぐさになろうと
毎日思っている。

 「便利さに浸ると、人間はものを考えなくなる。そうやって今、人間がダメになってきている」

 東京都三鷹市に、世界が注目する町工場がある。社員約50名の三鷹光器は、NASAからスペースシャトルに搭載する特殊カメラの製作を、ライカから外科用手術顕微鏡の開発を依頼されてきた。今も宇宙を飛び回る月探査機「かぐや」の観測装置も、三鷹光器製だ。

三鷹光器代表取締役会長 中村義一
(撮影:田渕睦深)

 大手メーカーを差し置いて三鷹光器が選ばれる理由は、製品開発の独創性にある。例えばライカに開発を託された顕微鏡は、執刀医と同じ術野を助手が見ることができる仕組み、作業を邪魔しない構造など、様々なアイデアにより内外で高く評価されている。創業者で現会長の中村義一は、人間にもともと備わっている「工夫しようと考える力」を発揮させるだけだと、いとも簡単に言う。一方で、考える力が、便利な世の中に浸るうちに退化してきていると、今の日本に警鐘を鳴らす。

 便利さのどこに落とし穴があるんでしょう?

 「人間って、ものぐさになろうと毎日思っているでしょう。何でも買ってくればいい、自分でやらないほうがいいと思っている」

 確かに、世の中にモノは溢れている。お金を出せば便利さは買える、何だって与えてもらえるという環境にいるうちに、人間は自分で考え、生み出すことを忘れていく。便利さの落とし穴とは、思考停止に陥っていくことだろう。

 それが製造業、とくに中小企業にとっては死活問題だと、中村は言う。

 「われわれ中小企業は、こうなってくるだろうと予測して、待ち伏せをして、そこを幸せが通ったときにつかむしかない。大手はライオンみたいなもので、後から追いかけていっても捕まえられるけど、われわれはネコだから、先のことを考える力がなければ明日はないんです。それなのに機械を買ってきて『何分で、この部品が何個できます』と言っているけど、要は機械がつくってくれるだけ。それでは、大手から仕事をもらい受けることしかできなくなる」

 後述するが、中村は東京大学天文台(現・国立天文台)に勤めていた。そこに何十年も使っているのにガタがこない望遠鏡があった。望遠鏡を分解した中村は、磨耗が一箇所に集中しないような工夫がしてあるのを発見し、何十年も部品を取り替えなくても大丈夫な仕かけができることを知った。『買ってきて取り替えればいい』と思わなければ、工夫して長持ちさせる仕かけをつくれる能力が人間にはある。

 だから今でも三鷹光器では、何ごとも買ってくることをせずに自分でつくる。仕事で使う測定器は市販の定規ではなく、自分でつくる。製品の部品も自分でつくる。のみならず、部品を削りだす刃物も自分でつくる。「世の中にないものをつくるんだから、部品も道具も新しくつくらなきゃ」と、中村は明快だ。

 「新入社員には、下手でもいいから絵を描かせます。図面を書けというと難しいけど、絵に寸法を入れればいいんだと。絵ができたら、『それをお前が全部つくれ』と言います。すると決まって、『なんだ、俺がつくるんだったら、こうします』となるんだ。自分がやるとしたら、誰だって損なやり方はしたくねえだろう」

 最初から最後まで自分でやる。やることは至ってシンプルだ。こうして社員一人ひとりが取り戻した、工夫しようと考える力が、三鷹光器の武器になっている。

 中村は、経済的には恵まれない幼少期を過ごした。小学校にあがる前後から、おもちゃは自分で木を削ってつくった。16歳のときに家族9人が暮らす家を一人でつくった。17歳で自宅近くの天文台に勤め、説明書も教える人もない中で時計や観測機器を部品からつくった。

 家を自分でつくったんですか?

 「終戦後で、兵舎の角材が山になっていたから、それを拾ってきた。壁泥は買ってきたけどね。完成した家を買うお金はないし、自分は体が小さくて、兄弟は全部年下で手伝えないから、滑車や天秤で重いものを軽く持ち上げる方法を考えなくちゃしょうがなかった。親がものぐさだったから、自分が何とかしなきゃという信念は強かったですね。だから35歳で独立してからの経営も、自分が死んでも兄弟は助けるつもりでやってきました」

 その家は40年以上も持ちこたえたというから驚きだ。中村は、小さい頃から手先が器用だったし、好奇心も旺盛だった。でも、中村が自分で工夫して考えることを続けてきたのは、そうしなければ家族を生かしてやれない、会社をやっていけないという気骨があったからではないか。好々爺とした表情を見せる半面で、飾らないズバズバしたもの言いを聞くにつけ、そう感じてしまう。


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