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2009年12月7日

 知床半島を人差し指に例えれば、第2関節のあたりにウトロの町がある。ウトロを過ぎて岬、つまり指の先端のほうへと分け入ると、道路は森に包まれ、人の気配はなくなる。筆者が初めて知床を訪れた時、その道路沿いに、一軒の朽ち果てた家を見つけた。同行した人が、1960年代に開拓者が住んでいた家だと教えてくれた。こんな山奥にと驚くとともに、冬は極寒の僻地に耐えきれず逃げ出したのだと思った。

 50年代、国策として進められた入植で、ウトロから岬に向かって約10キロ入った知床開拓地(幌別村、岩尾別村)には、最盛期に60戸が居を構えた。原生林を伐り開き、畑を耕していた開拓者たちは、年表の上では66年に全戸離農し、道内外へと去った。それから40年間、開拓は「失敗だった」と言われ続けた。いま観光で知床峠や知床五湖を目指す時に開拓地だったところを横切るが、車窓から見えるのは木々の緑ばかりで、数軒の廃屋を除けば、痕跡は感じられない。私たちが太古からの原生林であり、人が住んだことはなかったと思っているところが、半世紀近く前は広大な畑だったとは信じられない。

栂嶺レイ(つがみね・れい)
1966年生まれ。もと医大助手。写真家として民俗信仰を残す村々の取材、撮影を続けつつ、病院の非常勤医師として地域医療に携わる。著書に『知床開拓スピリット』(柏艪舎)
写真:田渕睦深

 写真家であり医師である栂嶺レイは、開拓は失敗だったという一面的な見方に疑問を持った。元開拓者の話を聞き、その情報を頼りに森に入り、熊笹を掻き分けて生活の痕跡を探った。札幌で(後に知床の斜里町でも)非常勤医師として病院に勤めつつ、休みの日に知床に行った。車に寝泊りしながら、羆と鉢合わせしたりダニに全身を噛まれたりしながら、昼に踏み入ってもドキドキするような森の中を歩き回って風評とは異なる現実に迫り、写真とルポを1冊の本として上梓した。

 「知床を撮ろうとした時、単なる風景や動物には興味がなかった。私は神社仏閣や民俗行事など人の生活や歴史を撮ってきたんですが、そういえば、廃屋があったなと。斜里町に住む元開拓者を紹介してもらって話を聞きました」

 「話を聞いた翌日には、開拓地跡の森の中を歩いていました。開拓は失敗だった、悲惨だったと言われていたし、私も『自然の厳しさゆえに離農した』と思っていたんですが、歩いてみると、子どもの鞄とか鍋とか、ぼろぼろと出てくる。子どもも学校に通っていたし、ちゃんと作物も採れていた。『あれ、みなさん、普通に生きてた』って思いました」

モノをつくるだけの知恵も力もあることを
疑わない生活があった

 開拓者たちは、森の中に水源を探して村まで水道管を整備し、ガラス戸が吹き飛ぶほどの風を逆に利して風力発電装置をつくった。家も自分たちで建て、畑を耕し、牧畜や魚の養殖をした。開拓地の馬鈴薯は高値で売れた。2つの村には小中学校や墓地や公民館があり、十分な集落の体をなしていた。


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