佐藤忠男の映画人国記

2010年5月11日

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 1910年代の愛媛県松山市の松山中学に、のちにともに時代劇映画の巨匠になる伊藤大輔(1898〜1981年)と伊丹万作(1900〜46年)が学んでいた。俳句で名をなす中村草田男(1901〜83年)も一緒で、3人は仲よく回覧雑誌を作っていたという。伊丹万作の息子の伊丹十三(1933〜97年)は京都で生まれたが、戦後まもなく万作が亡くなってから松山に移り、松山東高校で学び、そこで親友になったのが大江健三郎だった。親の世代の3人も、息子の世代の場合も、たまたま同じ学校に通っていたというだけでなく、生涯、強い友情で結ばれていたことを本人たちが強調しているのが印象的である。

 芸術家同士の友情というのは、たんなる仲良しというにとどまらず、相互に強い影響関係を生む場合が多い。ただしそれは互いに似てくるということでは必ずしもなく、むしろ対抗するようにして別の道を探るという場合も少なくない。

 まず伊藤大輔が、昭和初期に大河内傳次郎主演の「丹下左膳」もの、その他の悲愴なまでに反逆的で闘争的なチャンバラ作品で有名になった。画家を志していた伊丹万作はこの親友の居候として映画界に接し、伊藤のすすめでシナリオを書いて監督にもなったが、それは極力チャンバラを避けた機知に富んだ喜劇で、おなじ時代劇でありながらことごとく伊籐大輔の行き方の逆を行くものであった。侍たちが武士道にこだわって愚かな戦いを始めようとするのを、主人公の武士が巧みな外交で止めさせる「武道大鑑」といった平和主義的な喜劇を、軍国主義台頭期の1934年に作っている。

 この伊丹作品のいくつかに私は高度のユーモアと同時に、何気なく季節感に心をゆだねる俳句的抒情のようなものを感じることがあるのだが、それを中学時代以来の中村草田男との交遊に結びつけたらいささか牽強付会になるだろうか。伊丹十三は早くに、この父を失っているが、映画監督としての自己形成の過程で偉大な父親を強く意識していたことは間違いない。「お葬式」(1984年)「マルサの女」(1987年)などなど、機知に富んだ社会風刺に自分の本領を見定めているところにそれがくっきりと現われている。

 大江健三郎は、長年の親友であり義兄でもあったこの伊丹十三との心の交流に着想した小説を書いている。敗戦後の混乱した時代に、一緒にその混乱を直視したという経験が友情の土台になっているようだ。地方で秀才同士が若き日に出会うと、その交遊は相互に強い刺激となって濃縮されるのかもしれない。親たちがそうであったように。

 松山市出身の佐伯清(1914〜2002年)は同郷の先輩の伊丹万作を頼ってその助監督をつとめて監督になった。私の好きな作品では維新の戦いに敗れた東北の侍が北海道開拓でがんばる「大地の侍」(1956年)である。一般的には「昭和残侠伝」シリーズが有名だ。

 やはり松山市出身の森一生(1911〜89年)は1960年代の大映時代劇の監督たちの中の重鎮だった。「座頭市」や「兵隊やくざ」や「悪名」などのヒットシリーズのめぼしい作品を手がけている。

 脚本家ではテレビが主であるが早坂暁。代表作は「夢千代日記」(1985年)や「青春の門」(1975年)で、まじめに生きる心の美しい人々を深い思いやりをこめて描く作品にすぐれたものが多い。

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