WEDGE REPORT

2017年7月20日

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風樹茂 (かざき・しげる)

作家、国際コンサルタント

作家、国際コンサルタント(kazakishigeru@gmail.com)。1956年、北海道生まれ。東京外国語大学スペイン語学科卒業。メキシコ留学後、中南米の専門商社を経て、南米アマゾンの奥地でODAプロジェクトの鉄道建設にかかわる。その後は、シンクタンク、研究所勤務などで、首相向けの政策提言、ODA援助、海外投資、NGOプロジェクトに従事。イスラム開発銀行のコンサルタントも経験し、30数カ国を踏査。石油関連事業でカタール、ベネズエラに駐在。

 日本人には、独裁といえばお隣の北朝鮮を思う人が多いだろうが、世界には様々な独裁国があったし、今もある。世界情勢が第一次世界大戦や第二次世界大戦の前夜を思わせる群雄割拠の様相を呈してくると、とかく独裁やファシズムや権威的な政府ができやすい。だが、戦前を知る高齢者を除いては、そのような状況を実際に経験した日本人は少ないに違いない。

独裁はかえって治安がよい?

チリ・サンチャゴ(pawopa3336/iStock)

 私は、何の縁があってか、独裁国家やそれに類似した国に滞在することがたびたびあった。旅、出張、駐在。チリのピノチェト軍事政権(1974~90)、パラグアイのストロエスネル政権(1954~89)、ミャンマー軍事政権(1998~2015)、カタール首長制(1971~)、サウジアラビア王政(1932~)、そして現在のベネズエラ政権(1999~)など。

 金満の王国は別として、私の知る限りでは社会主義あるいは新自由主義の中でこそ独裁は悪の華を咲かせてきた。人類の近代史は、思想や主義は独裁と国民の抑圧のために使われてきたと言える。それは決して他人ごとではない。政治的無関心・絶望、目先の利益への執着、周辺国に対する煽られた恐怖等など、様々な理由で、どこの国でも独裁は細菌のように感染してきた。

 独裁とファシズムの潮流が世界を覆い始め、この極東まで押し寄せて来そうな予感がする今、独裁国とその系譜での筆者のささやかな経験から、独裁の形成、維持、拒否、崩壊の断章を描き、小さな警鐘の鐘を鳴らしたいと思う。第一回目は社会主義を倒すために忽然と現れたチリのピノチェト軍事政権である。

独裁は新自由主義を放棄していた

 真冬のサンチャゴは、大気汚染のスモッグが美しいはずのアンデスの山々を隠していた。人々はコートに身を包んで、足早に灰色の街を歩く。街角のそこかしこで、自動小銃を持ったカラビネーロ(=国家憲兵、内務省管轄の治安維持のための軍警)が目を光らせている。

 時、1988年、ピノチェト軍事政権の終末期、軍事独裁政権か、あるいは民主化か? 軍政にイエス(si)かノー(no)を問う国民投票が迫っていた。

 不穏な情勢であった。週に一、二度テロがあった。標的は今のISのように無差別ではなく、カラビネーロだった。左翼系のアジェンデ政権を倒した1973年のクーデターでピノチェトの手先となって働いたのが彼らだった。拷問と虐殺が待っていた。3千人の市民が行方不明となっている。独裁政府と信条が合わない学者、政治家なども国を逃れなければならなかった。彼らカラビネーロは、肉親や友人を殺害された人々にとって恐怖と恨みの対象である。テロは圧政への反発として生じる。

 といって、アジェンデの社会主義政権も擁護はできない。企業人事までが政治指導となり、経済は混乱し、旧ソ連や今のベネズエラと同様にモノ不足、行列が生じ、そして国民の怒りが充満しつつあったのである。そんな状況下、当時はシカゴ学派としか呼ばれていなかったであろう、私企業の制限のない活動を容認するフリードマンの新自由主義を旗印とする軍事独裁政権が確立された。

 新自由主義が、言論の自由のない独裁政権で産声を上げたのは皮肉であった。いや、必然かもしれない。それは富裕層のための政策にならざるを得ない。一時は景気が高揚しても、長期的には格差が生じ、国内需要が落ち込み、経済は立ち行かなくなる。まさにチリもその通りに進み(教科書通りといえる)、1985年にはピノチェト政府も軌道を修正し、シカゴ学派を追放し、ケインズ的な政策を敷くようになっていた。

 筆者が訪れた88年にはチリ経済の骨格をなす銅価格の上昇もあり、経済は回復期にあった。

 だからこそ、ピノチェットは自信をもって国民投票を容認したのである。だが独裁者はすでに裸の王様であった。人はパンのみに生きるわけではない。

テロを除けば治安はいいが

 サンチャゴ滞在中、4月19日、5月5日、20日、27日-街路で、バスの中で、停留所で若いテロリストに銃弾を浴びせられ、カラビネーロ4名が命を断った。若者同士の殺し合い。

 20日の犠牲者の伍長(29)は新婚早々だったせいで反政府系の雑誌でも大々的に報じられた。新妻は身を案じて「出勤、帰宅時には私服に着替えたほうがいいわよ」と言っていたが、夫は「4回も乗り換える度にバス賃を支払うわけにはいかない(制服だと無料)」と答えて、安全を考慮して毎日バスのルートを変えていた。彼の給与は税込み3万ペソ、約110ドルだった。

 テロを除けば周辺国と比べて治安は各段によかった。筆者が留まった安宿は、日本人旅行者の避難所だった。ペル-、ボリビア、ブラジルなどで、すり、かっぱらい、詐欺、暴行にあった者たちが青い顔をして続々と集まってきた。チリにはつい長居をしてしまう。

 この国は美しい火山や湖に彩られ、海に接し、地震津波に見舞われ、なぜか火事も多く、人々はウニ、ホヤ、アワビなどの海産物を生で食べる。国民性は日本と似通っていた。外国人には親切で、道を聞くと、途中まで連れて行ってくれたし、筆者はパタゴニアで民家に泊めてもらったことさえあった。ドル建ての海外送金が可能だったことも、盗まれた後に、サンチアゴに集まってくる理由だった。

 政治にかかわらなければ独裁も悪くはなさそうだ。そう思ったのは、浅はかな考えだった。

ナイトクラブの銃口

 テロに対するカラビネーロの仕返しは無粋だった。ナイトクラブやディスコティクに自動小銃をかざして突然押し入ってくる。テロリストを探すという名目で、店の女たちや怪しげな客を誰何(すいか)し、身分証明書を出させ、嫌がらせをする。中にはナイトクラブで働いた金をテロ組織に貢いでいた女性がいたのかもしれない。まれに店から誰かが彼らに連行させられることもあった。逮捕状などもちろんない。

 そんな時は彼らが去ると、音楽がさりげなく再開され、男女は「ノーに一票!」という軽快な政治ソングを声を張り上げながら踊った。地方のライブハウスでも、早朝になると、最後は民主化を求める歌でしめくくられた。中には歌いながら頬に涙を光らせている若者もいた。今の民主国家のチリでは考えられないが、そんな時代があった。

 筆者も何度かナイトクラブやライブハウスで、腹立たしい場面に遭遇した。

 カラビネーロ数人が入ってくると音楽が止まる。踊っていた男女が席に戻る。誰かが冗談をいう。マシンガンの銃口がその誰かに向けられる。沈黙と緊張が店内を支配する。女たちが調べられる。

 ふっと思い出すのは、映画や演劇で描かれた1930年代の租界地、上海のジャズクラブに入ってくる日本の憲兵たちだった。どこの国でも軍警は似ている。ちなみにチリの軍隊組織はドイツのナチス親衛隊を手本としていた。

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