チャイナ・ウォッチャーの視点

2010年8月13日

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平野 聡 (ひらの・さとし)

東京大学大学院法学政治学研究科教授

1970年、神奈川県生まれ。東京大学法学部卒業。東京大学法学部教授。アジア政治外交史担当。著書に『大新帝国と中華の混迷(興亡の世界史17)』(講談社)、サントリー学芸賞を受賞した『清帝国とチベット問題 多民族統合の成立と瓦解』(名古屋大学出版会)がある。

 フジヤマにサクラ。日本のパスポートの透かしにも入れられ、ある意味で (ステレオタイプ的に?) 日本のイメージを最も代表する組み合わせには、来日する中国人観光客からもかねてから熱い視線が注がれて来たのをご存じだろうか?

日本軍が植えた桜をめぐって……

 もちろん、過去の歴史を引きずる日中関係に即して、彼らの視線は複雑であることも否めない。軍歌「同期の桜」に象徴されるように、桜の花は「かつて天皇制国家のために潔く殉じる軍国主義の象徴であった」と中国ではしばしば捉えられている。日中戦争期に華中を占領した日本軍が植えた武漢大学の桜は、今でこそ国営新華社が扱えば、ワシントン・ポトマック川の桜と同様「中日友好の象徴」として紹介されるが、そもそもの由来は拭い去ることが出来ないため、美しい花を咲かせて観覧客を集めるたびにネット上で「切るか切らぬか」の論争に晒されている。とくに昨年は、浴衣に似せた衣装を用意して桜を愛で記念撮影をしようとした母娘に対して、他でもない武漢大学の学生から罵声が浴びせられるという事件すら起こった(http://www.recordchina.co.jp/group/g29732.html)。「漢奸」(漢民族の裏切り者)ということなのだろう。

 しかし、美しい花は美しい花、軍国主義は軍国主義とドライに割り切るという現実主義も中国では極めて一般的である。そもそも自国の歴史すら、国民の生命と財産を軽んじる権力者の放肆に苦節を嘗めさせられてきたのが実態である以上、ある事物が日本の象徴的存在であるからといって一律に否定するという類の偏見は、筆者の管見の限りまれである。ネット上のごく一部の過激なナショナリストの考えだけをとらえて、それが一国全体の対外観を代表しているかのように見なすのは避けなければならないだろう。

20年前から中国で流行る富士山と桜のポスター

 むしろ、浴衣に似せた服をあつらえて記念写真に興じようとする人々がいることこそ、中国の経済発展と変化の象徴である。実際、日本の桜の名所もここ2〜3年は明らかに中国大陸出身者で賑わっている。桜の花は既に長らく、台湾からの観光客にとって決して見逃せない日本観光のハイライトである。梅の花を愛でる漢人が人口のほとんどを占める台湾でもこれほど「桜の日本」が注目を集める以上、ほぼ共通の文化的感性を持つ大陸の漢人も経済的・文化的な余裕が生まれれば異国の桜を訪ねようと思うのはごく自然な流れなのだろう。

 しかし、実はそれ以上に重要な伏線があった。近年の中国の都市部における高級な住宅では見られなくなりつつあるが、中国の民家では単調な塗り壁の部屋の殺風景さを補うべく、財神・有名人や風景・静物などのポスターを購入してあれこれ大きく貼るのが一般的である。毎年の春節(旧正月)を控えた時期は、とくに新しいポスターに貼り替える季節でもあり、町の至るところに出現する年貨(新年用品)の市を訪れると、満艦飾の如く様々なデザインのポスターがあふれている(そのような場所を訪れると、毛沢東など「革命聖人」が財神と同列に扱われているのが興味を誘うが、このへんの精神構造はいつかご紹介できればと思う)。そのような場で売られるポスターには勿論外国の風景もあり、驚くなかれ、筆者が初めて中国を訪れた今から約20年前には、河口湖の畔から撮影された富士山と桜の図が大流行していたものである。

日本への観光拡大はなぜ起きたのか?

 まだまだ中国が高度成長を始める前のモノトーンで社会主義計画経済的な街並み、そして貧困が当たり前という状況の中、富士山と桜は人々の「漂亮」(きれい)なものへの憧れの象徴であり、とりわけ富士山は完全な円錐として神秘的な感覚を呼び起こすものであったらしい。しかも当時の中国では、六四天安門事件直後ゆえに政治・経済的に沈滞していたとはいえ、日本を標的にした江沢民時代の愛国主義教育は始まっておらず、偏狭さを煽るネットも存在しなかった。むしろ日本的なものは、ドラマ・アニメから電化製品に至るまで、純粋に高い評価の象徴であった。もちろん当時も、過去の歴史に由来する日本への複雑な感情は存在したことは言うまでもない。しかし、「中国が好きで訪れる日本の若者を歓迎しないはずがない。今後の中日友好協力万歳!」と言わんばかりの雰囲気はどこでも強く感じられたのを思い出す。

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