2024年4月19日(金)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2010年8月13日

 19世紀後半、近代外交の荒波が東シナ海の周辺に押し寄せ、日清両国が対等な国家として直面しなければならなくなったとき、日本側は長崎・朝鮮通信使・琉球を経由して得た情報をもとに、積極的に対等外交と通商を求めた。しかし清国側は長らく日本について、明の時代に「天朝」中心の世界を乱した倭寇と豊臣秀吉の印象でとらえていた。日本が朝貢を望まず、かつ他の朝貢国を侵さないのであれば、正式な関係など持たずに限定的な貿易で済ませ、皇帝の恩恵の外側に捨て置けば良い、自ら進んで日本事情を知る意味などないという認識であった。

 そのような発想が官界・知識層で極めて一般的であったからこそ、19世紀後半以後の日本との関係においては常に日本側のペースに巻き込まれ、ついには日清戦争の敗北に至った。1871年の日清修好条規の締結後にはじめて設置された駐東京清国公使館員として東京に赴任し、日清戦争の直前に『日本国志』を著して初めて日本の歴史・現状・風物・観光名所を広く紹介した黄遵憲は、そのような清国側の日本に対する著しい無関心を厳しく批判している。

 日清戦争に敗北し、迷信に満ちた民間信仰に朝廷がお墨付きを与えることで八カ国連合軍の北京攻撃を許した義和団事変の苦杯をなめさせられた清は、20世紀初頭になると「新政」と称する全面的な近代化に乗り出した。そこで最も参考とされたのが、日露戦争にも勝利した日本の近代国家建設の成果である。今日の中国語では、抽象的語彙の多くが近代和製漢語に依存しているが、これは「新政」の時代に猛烈な勢いで日本から知識を導入した結果である。

「中国四千年」も実は日本的なもののコピー

 しかも、帝国主義が勢いづく弱肉強食の世で生き残るためにナショナリズムを鼓舞した際に最も重視されたのは、日本の武士道精神ですらあった。「中国四千年・五千年」としばし言われるが、これすらも日本的なもののコピーである。神武天皇紀元で2500数十年、日本は万世一系の統治のもとで忠君愛国の精神を高めたからこそ、今や中国をも圧倒して世界の一等国に上り詰めたと考えた人々は、我々中国も愛国心を鼓舞するために「民族の始祖」を立てなければならないと考えた。そこで「発見」されたのが伝説の人物「黄帝」であり、黄帝以来の中国の歴史は4600年超であると定義された(韓国の「檀君」と「半万年の歴史」も全く同じような刺激・論理による)。

 こうして、日本経由の近代の影響を強く受けた人々が中華民国以後の歴史の中心となって行くし、共産主義思想にしても読んで字の如し、1910年代に主に日本経由で入ってきたものであった。

日本経由の近代に向き合う時中国は変わる

 したがって近代史を振り返ってみると、次のような構図を描けよう。中国は外に対して閉鎖的であるときには余り変化せず、むしろ伝統や硬直した秩序に拘束されて沈滞の一途をたどった(人民共和国建国後の毛沢東時代もその典型である)。しかし、日本からの刺激、あるいは日本経由の近代に正面から向き合って、それを積極的に吸収しようとしたとき、呆気ないほどに既存の枠組みに固執するのを止め、想像を大きく上回る速度で激変してきた。

 そして現在中国共産党が進めている党・国家主導の重商主義的な政策も、基本的には1980年代以降諸先進国やアジアNIESの経験、とりわけ自民党を中心とした政権党・官僚中心の経済政策を参考とし、それらの得失を推し量りながら、過去にとらわれずに(むしろ、停滞することがすなわち政治と社会の危機に直結するという激しい緊張感とともに)推進されているものだと言えよう。

後篇に続きます。

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◆本連載について
めまぐるしい変貌を遂げる中国。日々さまざまなニュースが飛び込んできますが、そのニュースをどう捉え、どう見ておくべきかを、新進気鋭のジャーナリスト や研究者がリアルタイムで提示します。政治・経済・軍事・社会問題・文化などあらゆる視点から、リレー形式で展開する中国時評です。
◆執筆者
富坂聰氏、石平氏、有本香氏(以上3名はジャーナリスト)
城山英巳氏(時事通信社外信部記者)、平野聡氏(東京大学准教授)
◆更新 : 毎週水曜

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