また、日本は、特に中曽根康弘総理以来、「西側の一員」としての立ち位置を明確にした。戦後、自由世界を主導したのは、米国を始めとする西側諸国であった。日本は、中曽根総理の勇断によって、「西側の一員」として相応の指導的責任を引き受け、それにより、ヒトラーの同盟国、敗戦国、旧敵国という汚名を雪ぎ、政治的な復権を果たしたのである。
にもかかわらず、日本では、依然として、時折、鬱屈した反米感情が噴き出すことがある。それは戦後に特徴的な現象ではない。かつて、日本は、日露戦争の勝利に驕り、中国大陸への野心を剥き出しにし、1920年代の海軍軍縮時代の頃から、日本の台頭を抑えこもうとした米英両国に対して、悲憤慷慨ともいうべき強い感情的反発を見せるようになった。この驕りと反発が、真珠湾攻撃につながっていく。
敗戦後、近代日本の鬱屈した反米ナショナリズムは、反米・反安保のイデオロギー闘争の中に形を変えて流れこんだように見える。しかし、朝鮮戦争が火を噴き、厳しい冷戦が始まったばかりの頃、吉田茂や岸信介などの政治家は、冷徹な戦略眼をもって国益を洞察し、荒れる世論に抗って、日米同盟を選択した。それが日本の経済的復興と政治的復権を決定的にしたのである。
ところが、冷戦後期になると、日本人は、急速な高度経済成長に驕り始め、再び戦略眼を曇らせ始めたようである。日本人は、一方で、米国の庇護に依存したまま自立への努力を忘れ、もう一方で、親分面をする米国の存在を「うっとうしい」と思い始めたのである。この米国への感情的な反発が、まるで戦前の大東亜共栄圏を思わせるような、空虚なアジア主義への傾斜を生んでいる。だが、それは、幻想である。台頭する中国を前に、米国から切れた日本に付いてくるような国など、どこにもいないのである。
21世紀の日本の平和と繁栄は、アジア太平洋という戦略的枠組みの中で、大国間の戦略的均衡を確保し、開放的な貿易体制を維持することによってのみ可能である。それが、戦後日本の選択であった。そもそも、環太平洋経済圏という大構想は、アジアの経済的躍進が始まる前の70年代に、日本の大平正芳総理と大来佐武郎外相が打ち出したものである。それが、今日のアジア太平洋経済協力(APEC)につながっていったのである。東アジア首脳会議(EAS)も、「ASEAN+3」の枠組みを牛耳ろうとした中国に対抗して、日本が、インドや豪州を引き込んで作ったものである。米国は当初、EASに消極的だったが、日本の説得の甲斐があって、漸く10年から、ロシアと共に参加することになった。
これまで、日本外交は、米国を引き込んで、環太平洋やアジア太平洋という枠組みで戦略を立てた時に成功し、東アジアの覇権や米国の排除を考えたときに必ず失敗してきた。私たちは、この歴史の教訓を忘れるべきではない。環太平洋自由貿易構想を、戦略的観点から眺めれば、日本が飛び乗るべきバスであることは自明であろう。徹底した自由貿易を標榜するTPPに加盟することは容易ではない。しかし、衰退した農業の問題などを克服するための国内政治の痛みは、新生日本を生み出すための痛みである。
閉塞感に鎖され、内向き、縮み志向に陥った日本はこの痛みを覚悟し、敢えて突破口を開いて局面を打開する強力なリーダーシップが必要である。菅直人総理は、「歴史の分水嶺」という言葉をよく使う。分水嶺では、正しい方に滑っていかねばならない。反米感情に踊らされた戦略なきアジア主義は、逆に、日本を奈落の底に突き落とすことになるであろう。
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