サラリーマンがひも解く歴史学

2019年6月9日

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兵頭泰史 (ひょうどう・やすし)

1977年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。幼い頃から戦国時代を中心とした歴史マニアだったが、大学で入る学部を間違ったため、苦しんだ。留年を経てなんとか就職。サラリーマン生活を続けながら、在野で歴史研究を続けている。サラリーマン視点で歴史を綴っていく。

京都御所御常御殿(vanbeets/gettyimages)

 今回は、戦国時代における天皇と政治について考えてみたいと思います。応仁の戦乱で荒廃した京にあって天皇や朝廷は権威を失って、その日のお金に困るほど逼迫していた――なんてイメージをお持ちの方は多いと思います。

 確かに財政的には困っていた部分もありますが、正親町天皇は「保護します」という大義名分を掲げて上洛した織田信長から都の造営費など援助を受けることに成功しました。

 その見返りなんでしょうが、信長は自身の敵対勢力との講和に正親町天皇から勅命を出させているんです。さらに正親町天皇は、天下人となった豊臣秀吉から御料地や黄金も献上してもらっているんです。

 こう見ると、私たちがイメージしているよりも遥かにいい暮らしをしていたのではと思ってしまいます。

 正親町天皇の次に即位したのは孫の後陽成天皇なのですが、秀吉はこの天皇から関白に任命されています。農民出身の秀吉が征夷大将軍になれない代わりに“天下人”の地位を得るために関白になったのですが、天皇の権威を利用したものと言えるでしょう。

 なお、秀吉は明(現在の中国)を征服した際には、後陽成天皇を明の北京に遷して皇帝にしようという構想を抱いていました。

 全ての大名に当てはまるわけではないですが、上杉謙信だって上洛していますし、三好氏は京を一時期抑えて中央に覇を唱えたという説も最近では浮上しています。

 足利幕府もそうかもしれませんが、やはり天皇のいる京はこの国の中心とみなされていたのです。京が中心というより、天皇がいるところこそが日本という国の中心なのかもしれません。

 徳川家康が打ち立てた江戸幕府が禁中並公家諸法度を制定したのは、それだけ天皇及び公家に脅威を持っていたためなんでしょう。

 これら信長、秀吉、徳川家康の3英傑でさえ天皇を無視することはできなかったことを物語っています。

 そんな尊い天皇に、命乞いまでさせたある武将がいることをご存知でしょうか。その武将のある特技が、天皇が命乞いに動くまでに至ったのです。この件では、天皇自らが積極的に政治参加していたと言えるものです。

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