地震と津波で徹底的に破壊された被災地のインフラは、震災後1カ月で大きく機能回復した。迅速な復旧を支えた数多くの縁の下の力持ちたち。想定外の危機に対応した各社の現場力。利用者からの信頼を獲得するために一見ムダと思えるほどの労力やコストをかける日本企業の精神性にこそ未来を切り拓く力があるのではないだろうか。
「震災後にまず欲しかったのは光でした」(齋藤病院総務課長・佐藤進一さん)、「家に電気が点いた時には心底感動しました」(市内在住の女性)、「光が人々の不安を解消してくれました」(石巻市防災対策課長・木村伸さん)。宮城県石巻市。人々を照らす希望の光が生活の場に戻りつつあることを喜ぶ人々に、4月21日に行った取材中、あちこちで出会った。
今回の震災で、東北電力管内は延べ486万戸が停電した。1978年の宮城県沖地震の7倍の規模だ。
そもそも、利用者のもとに電気を届けるためには、さまざまな電力設備が必要となる。たとえば、発電所でつくられた電気を消費地に届ける送電線とそれを支持する鉄塔、電圧を下げる変電所、一般家庭や工場に電気を送る配電線などだ。今回、仙台火力発電所など3カ所が津波の被害を受けた。また、鉄塔の損壊・折損・傾斜が42基、変電所の設備被害が57カ所、電線断線・がいし折損が22カ所、電柱折損・傾斜が約2万2000基だった。だが、震災後20日間で468万戸を復旧。5月6日現在、99%が復旧している。同社の復旧作業の軌跡を追った。
通信手段途絶の中 現場は動いていた
「震度7だ!」。宮城県仙台市・東北電力本店4階の総務部防災・危機管理グループ。3月11日14時46分の地震直後、同グループ副長・浅黄真孝さんは携帯メールに配信された速報を見て、大声で叫んだ。浅黄さんの声を聞いた同部課長・橋浦嘉昭さんは、通信機器やテレビ会議システムが常設されている6階の災害対策本部室にすぐさま駆け上がった。そして海輪誠社長を本部長とする非常災害対策本部を立ち上げ、15時20分に対策会議が開催された。だが、情報収集しようにも、通信手段が途絶していた。幸い、一部の社内専用回線が使えたが、被災し、通信が途絶した一部の事業所との連絡はなかなか取れない。日没で被害状況の全容把握は思うように進まなかった。
しかし、そうした困難な状況のなかでも、現場は、復旧に向けて、確実に動いていたのだ。
今回の震災で特に被害が大きかったのは、家庭や工場へ電気を送る電線や電柱の配電設備だった。「当日は、余震と津波の影響で配電設備の状況把握ができず、歯がゆい状況が続きました」。配電設備の保守・工事を担当する石巻営業所総務課長・小原武義さんは地震当日をこう振り返る。同営業所管内は、地震の影響で、12万6000戸全てが停電する事態に直面していた。営業所でも通信手段は途絶。情報収集手段はラジオのみだった。
地震発生時、外出中だった同営業所・山口荘一郎さんは会社に戻れず、避難所で一夜を過ごした。「『3日待てば電気も復旧するはず。頑張ろう』と皆さんおっしゃっていて、その言葉が強く耳に残りました。電気を待っている人がいる。1日も早く復旧しなければ、と心に誓いました」(山口さん)。
営業所員は翌朝5時から配電設備の確認・復旧作業を開始した。ゴムボートを使用して確認する部隊もあった。復旧作業にはまず、電柱や電線の設備状況の把握が大前提となる。がれきが行く手を遮り、思うように進まない箇所もあったが、所員の不眠不休の努力により、地震発生翌日には、一部地域の家庭に送電できる準備が整った。