“ベトナム”と聞いて「観光地」「ベトナム戦争」または「開放経済による経済発展」と世代や立場によって思い浮かべるイメージは様々だろう。
明治の末に、弱冠15歳で天草から仏印(仏領インドシナ)へ渡り、その後、仏印において大成功を治めた商社「大南公司」を設立した松下光廣。
一方、ベトナム王朝の末裔で、フランスからの祖国独立を目指し、日露戦争に勝利した日本へと脱出してきたクオン・デ。
松下は、仏印での商売が成功し、仏印各地に支店を持つようになる。フランスの植民地として虐げられていたベトナム人に松下は共鳴し、日本にいるクオン・デら祖国独立を目指す革命家らとベトナム独立のために働く。
その両者や大隈重信、犬養毅、大川周明といった大物がベトナム独立に尽力する様子を膨大な資料や関係者の証言をもとに描いた大著が『「安南王国」の夢 ベトナム独立を支援した日本人』(ウェッジ社)だ。本書の著者で元日経新聞サイゴン特派員だった牧久氏に、これまで公に語られてこなかった松下光廣氏と彼の生きた時代についてお話を伺った。
◆ ◆ ◆
――牧さんは日経新聞の記者時代、特派員としてサイゴンに滞在されていました。その時の経験が本書を執筆した動機でしょうか?
牧:1975年3月1日、私は特派員としてベトナムのサイゴンへ赴任しました。当時のベトナムは、パリ協定によりアメリカ軍は引き上げていましたが、北ベトナム、南ベトナムと、解放戦線を主体とした南ベトナム臨時革命政府という事実上3つの政府がありました。しかし、赴任直後の4月30日に北ベトナム軍の侵攻によりサイゴンは陥落し南ベトナム政府は崩壊しました。そのサイゴン陥落から30年後の2005年、私は再びベトナムを訪れたのです。
サイゴン(現・ホーチミン市)では、かつての取材源であり、解放戦線側の情報に精通していた元大南公司の常務、西川寛生さんに再会しました。西川さんは思想家・大川周明の大川塾出身で、日本軍参謀長だった長勇(少将)が組織した許斐機関の機関員だった人物です。西川さんが心から尊敬し、日本軍までもが全幅の信頼を寄せていた「大南公司、松下光廣」という人物がどうしても気になり、彼の実像を深く調べてみようと思いました。
――今まで松下さんを真正面から取り上げた著作はなかったということですが、松下さんはどんな方だったのでしょうか?
牧:私がベトナム3部作として書いた『特務機関長 許斐氏利』(ウェッジ社)の許斐さんも、そしてフランスの植民地だった仏印に進駐した日本軍も松下さんに大変お世話になっている。松下さんが当時仏印における日本資本最大の商社「大南公司」を経営していたことはわかっていたのですが、松下さん自身がどんな人物であったのか、特に政治的な側面というのは資料としてほとんど残っていません。