チャイナ・ウォッチャーの視点

2012年5月2日

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城山英巳 (しろやま・ひでみ)

時事通信社外信部記者

1969年生まれ、慶應義塾大学文学部卒業後、時事通信社入社。社会部、外信部を経て2002年6月から07年10月まで中国総局(北京)特派員。 外信部を経て11年8月から2度目の北京特派員。11年、早稲田大学大学院修士課程修了。現地での中国取材は10年に及ぶ。16年5月に帰国し、現在外信部記者。近著に『中国 消し去られた記録〜北京特派員が見た大国の闇』(白水社)、著書に『中国臓器市場』(新潮社)、 『中国共産党「天皇工作」秘録』(文春新書、「第22回アジア・太平洋賞」特別賞受賞)、『中国人一億人電脳調査』(文春新書)がある。14年に戦後日中外交史スクープで13年度「ボーン・上田記念国際記者賞」を受賞。

 「盲目の人権活動家」として知られる陳光誠氏(40)が、軟禁されていた中国山東省臨沂市沂南県東師古村の自宅から脱出し、北京に向かい、米国大使館に保護されるという「奇跡」が起こった。その奇跡を起こしたのは、いくら政府から迫害を受けても「永遠にあきらめない」と言い続けた陳氏の執念の結集だが、それを支えた女性人権活動家らの勇気も忘れてはいけない。

200回以上転倒 自宅の塀を乗り越えた陳光誠

 東師古村はどこにでもあるようなのどかな農村である。しかし私が昨年10月末、村近くを走る国道をタクシーで走り、村周辺で取材した際、当局者や彼らの雇った暴漢ら数百人にも上る見張りが、陳氏の自宅を中心に7~8重にも配置されていたとみられる。

 陳氏は2006年に言われなき罪で懲役4年3月の実刑判決を受け、出所した後も自宅で過酷な軟禁が続いた。地元幹部らにたびたび激しく暴力を振るわれ、外部との接触も遮断された。

 こうした現実に立ち上がったのが、インターネットで「光誠に自由」と訴えた何培蓉さん(40)ら女性人権活動家たちだった。彼女らの呼び掛けで昨年8月以降、わずか数カ月間で計約200人もの若者が、陳氏を支援しようと村に向かっては次々と拘束されたり暴力を受けたりした。「維穏」(安定維持)の名の下で地元政府は、村に突入しようとする暴漢の数を一層拡大させた。

 陳氏は4月22日深夜、北京に向けて自宅の塀を乗り越えた。目は見えず200回以上も転倒したが、研ぎすまされた聴力と気配を頼りに突き進んだ。何さんは陳氏救出の計画・実行者だった。そして27日午後、陳氏は米大使館に保護されたが、何さんは公安当局に拘束された。

「今北京にいます。会えませんか」
何培蓉さんからの連絡

 「こんにちは。今北京にいます。会えませんか」。何さんから突然私に、ネット電話「スカイプ」のチャットに連絡があったのは24日午前9時前だった。

 公安当局から「敏感な人物」とみられる何さんは1~2週間に1回の割合で、秘密警察「国保」(公安局国内安全保衛隊)から事情聴取を受け、動向を監視されている。携帯電話は盗聴されている可能性が高いため連絡の際にはスカイプを多用する。

 この日夜に会う約束をしたが、彼女と連絡が取れなくなった。後で分かったことだが、自宅を脱出した陳氏から急きょ連絡が入ったのだった。自ら山東省に向かい、陳氏を北京に連れて来る最中だった。何さんから連絡が入ったのは24日深夜。「ごめんなさい。いましがた重要な状況だった。携帯電話を切っていた」

 25日午前11時に会ったが、普段は柔和で落ち着いた表情の何さんの顔はこの時、明らかに強ばっていた。彼女の話は次のような内容だった。

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