漢語モノリンガルを〝逆手〟に
オーセルは体制内の不純分子として排除されたが、著述の世界は広がった。彼女は人民解放軍の士官でアマチュア・カメラマンであった父が遺したチベット文革の記録写真を、後に夫となる漢人の独立知識人・王力雄の助言と協力により写真証言集『殺劫(シャーチェ)』(集広舎)として台湾で公刊した。「殺劫」はチベット語で革命を意味する言葉に近く、チベット人が受けた実態を伝えている。オーセルは父の写真を手がかりに関係者から証言を収集し、文献で補強し、物証・口証・書証により総合的に実証した。それは民族問題たるチベットと文革という中国共産党にとって重大な二つのタブーに迫るものだった。
彼女は公刊後も調査を続け、文革から50年の節目だった16年に『殺劫』増補改訂新版を出した。そこでは「文革は依然として禁区(タブー)、殺劫は依然として禁書」と記され、中国本土への持ち込みは相変わらず厳重に取り締まられている。一方、これは実証性を高めただけでなく、改革開放による経済成長で外見こそきらびやかに変貌したが、それと裏腹に政治的な支配に加えて経済的な開発独裁で「漢化」がより巧妙に大規模に進められていることも明らかにした。
また、北京五輪前の08年3月に起きたチベット抗議事件をきっかけに、オーセルは高度情報化のコミュニケーションツールを活用し「一人のメディア」として文学活動の重点をルポルタージュにシフトした。チベットの実情を逐次リアルタイムで世界に発信し、それを時系列に従って整理した『鼠年雪獅吼:2008年西蔵事件大事記』(允晨文化出版)は現在でも同事件に関する最も詳細な文献であり、研究資料としても貴重であると評価されている。
これに対して当局は法的手続きなしに連行、家宅捜索、パソコンなどの押収、監視、尾行、威嚇、嫌がらせを繰り返した。しかし、彼女は非暴力・不服従で巨大な強権国家と対峙し、中国共産党がメディアのみならず傘下組織を総動員して展開する圧倒的なプロパガンダに抵抗した。そして、10年に国際女性メディア基金が贈る「ジャーナリズムの勇」賞を受賞したものの、当局がパスポートの発給を許さず、授賞式への出席はかなわなかった。
11年、オーセルは僧侶などの焼身抗議や「被失踪(失踪させられたことを意味する造語)」を念じ、「私の両手には何もありません/でも右手にペンを握り、左手で記憶をつかみ/この時、記憶はペンの先から流れます/さらに行間には、踏みにじられた尊厳と/尽きない涙があふれます」と詠じた(『チベットの秘密』〈集広舍〉、58頁)。
これは統治者の言語=漢語による抵抗であるため、中国政府にとって厄介になっている。つまり、オーセルは「漢化」を逆手にとって、卓越した漢語能力を抵抗の手段に転化したのである。彼女の著述を多くの漢人が理解するとき、中国に真の〝Change〟が起きるだろう。
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