1931年の満州事変以降、日本をターゲットにした黄禍論が米国社会で説得力を増す中、1941年、真珠湾攻撃が起きた。それは、これまで黄禍論者が予見してきた人種戦争の始まりとなったのだろうか。
瞬く間に米国社会を埋め尽くす黄禍論
それまで黄禍論を唱えていた米国人は真珠湾攻撃の報に接し、ついに来るべきものが来たと感じた。満州を攻略し、日中戦争を引き起こしていた日本がついに米国への侵略に着手したと思ったのである。
一方、黄禍論を信じていなかった親日的米国人はショックを受け、中には考え方を180度変える者もあった。排日移民法にも反対していたJPモルガンの銀行家で後に同行の会長となるトーマス・ラモントは、日本が対米戦争に踏み切ることはないと信じていたが、真珠湾攻撃を境に日本人は殺されるべき生き物と考えるようになった。
日本人に対する偏見も、真珠湾攻撃に対する米国人の驚きを助長した。例えば多くの米国人は、日本人のパイロットは目が細すぎてよく見えないので、欧米人のパイロットに比べ操縦技術が著しく劣ると信じていた。フィリピンで日本軍機の攻撃を受けたマッカーサー将軍は、その鮮やかな攻撃に、操縦しているのはドイツ人パイロットだと信じていたほどである。
真珠湾攻撃当時、米太平洋艦隊の指揮を執っていたキンメル司令長は、警告があったにも関わらずなぜ艦艇を真珠湾に停泊させ続けたかを後に聞かれて、「あの黄色い畜生どもが、あんな攻撃をうまくやってのけるとは思いもしなかった」からだと答えている。
真珠湾攻撃の後、ドイツが米国に宣戦布告した。米国政府は日本と戦う太平洋戦線ではなく、ナチスドイツと戦う欧州戦線を重視し、第一戦場と定めた。にもかかわらず米国の世論は、ドイツ人よりも日本人を主たる敵と考えた。
開戦直前に当時の枢密院議長である原嘉道は、日独と米国が開戦した場合、人種のせいで米国はドイツよりも日本を強く敵視する、と懸念していたが、それが現実のものとなったのである。開戦直後に発行された1941年12月22日号の米誌『タイム』の表紙は、全面が「黄色」く彩られ中心に山本五十六の顔が描かれていた。