選手が参加費用を負担する五輪と、高額な賞金を支給するW杯。この大きな違いはなぜ生まれたのか。牛木さんは、アマチュアリズムに徹した国際オリンピック委員会(IOC)と、「プロ・アマの共存」を容認した国際サッカー連盟(FIFA)の発足当時からの路線の違いが影響したと説明する。
近代オリンピックの創始者、ピエール・ド・クーベルタンと、W杯を創設したFIFAのジュール・リメはともにフランス人だ。結果的にアマチュアリズムをオリンピックの理念にしたクーベルタンに対し、リメはサッカーで生活するプロの参加を排除せず、W杯をプロとアマチュアが共存する大会とした。
<「プロ選手の参加できないオリンピックでは本当の世界一を決めることはできない。本当の世界一を決める大会を、自分たちの手で創設しよう」というのが、ジュール・リメをはじめとする1920年代のFIFA役員の考えだった。>(41頁)
「アマチュア」にこだわり出遅れた日本
「ア式蹴球」として学生を中心にサッカーが広まった日本では、プロが参加するW杯への参加はハードルが高かった。日本サッカー協会(当時は日本蹴球協会)が1931年に出した協会機関誌「蹴球」創刊号は、前年にウルグアイで開催された第1回W杯について紹介した記事を掲載した。その中で、編集担当者千野正人氏は「我が国の純アマチュアチームが――しかも大部分が学生選手として――がプロに伍してゲームをすることが妥当であるか否か」と問題提起している。
牛木さんはこう解説する。<当時の日本では「スポーツでお金をもらってはいけない」というアマチュアリズムが、絶対に守らなければいけないスポーツのモラルとして浸透しており、プロと一緒に試合をすることは問題であると考えられていたのである。>(109頁)
W杯の参加を見送る代わりに、日本は1936年のベルリン五輪のサッカーに初参加する。関東大学リーグで優勝した早大を中心にしたメンバーで、参加16チーム中、最も弱いと予想されていたが、1回戦で優勝候補の一角、スウェーデンに3-2で逆転勝ち。「ベルリンの奇跡」と驚かせた。2回戦で優勝したイタリアと当たり、0-8で完敗した。
戦後も日本サッカー界のアマチュアリズムは依然として根強く残ったが、1954年の第5回スイス大会の地域予選に初参加した。台湾が棄権したため日本と韓国が1枠を争い、韓国が1勝1分けで本大会に出場した。その韓国もハンガリーに0-9、トルコに0-7と大敗。アジアのレベルの低さをさらけ出した。
1964年の東京五輪に向けて強化を図った日本は、ドイツからクラマー氏をコーチに招き、強化を図った。その成果は4年後のメキシコ五輪での銅メダルに結びついたが、世界のサッカー界からは「アマチュアレベルの大会」として、ほとんど評価されなかった。
日本サッカーに変化が訪れたのは、世界的な「アマチュアリズムの崩壊」の流れだった。日本のアマチュアスポーツ界を統括していた日本体育協会(体協、現日本スポーツ協会)は1986年、「アマチュア規定」の廃止を決め、傘下のスポーツ団体もプロの加入が認められるようになった。
<日本のサッカーのレベルアップを妨げていた体協アマチュア規定が撤廃されたことによって、日本でもサッカーのプロ化が可能になり、1993年にJリーグが発足した。底辺の拡大とJリーグの発足が、日本のサッカーが低迷時代から脱出する原動力になった。>(114頁)