転機となった「ドーハの悲劇」
Jリーグ発足の前年、日本サッカー協会は日本代表監督に初めて外国人を起用した。オランダ人のハンス・オフト監督である。牛木さんはこの人選が日本代表の強化につながったと評価した。
<代表チーム急上昇に直接貢献したのはオランダ人のハンス・オフトである。1992年に日本代表チーム監督として日本サッカー協会と契約した。初めての外国人監督であり、初めてのプロフェッショナルの監督だった。(略)日本代表監督になった年の10~11月に広島で行われたアジアカップで、ラモス瑠偉や三浦知良(カズ)を使いこなして優勝した。日本が公式の国際大会で初めて獲得したタイトルである。>(115~117頁)
外国人プロ監督の招聘、Jリーグのスタートと、日本国内でのサッカーへの注目度が高まる中、中東カタール・ドーハで開かれたW杯米国大会の代表を決めるアジア最終予選。オフト監督率いる日本代表は北朝鮮、韓国に連勝し、初のW杯出場をほぼ手中にしながら、最終イラク戦、後半のロスタイムまで2-1とリードしながら同点弾を浴び、あと一歩のところで出場権を逃した。いわゆる「ドーハの悲劇」だ。
残念な結果ではあったが、W杯が日本中の関心を集める効果はあった。この機運をさらに加速したのが1996年のFIFAの決定だった。2002年の第17回W杯を日本と韓国の共催で行うことが決まった。その時点でW杯本大会の出場経験がない日本にとって、1998年フランス大会出場はぜひとも実現させなければならない目標となった。
自腹で取材を重ねてきた日本人記者たち
日本は苦しみながらも最終的にアジア地区3枚目の出場切符を獲得し、岡田武史監督の下、フランス大会に出場した。牛久さんが取材したW杯の8大会目にして初めて日本代表が出場する大会となった。
日本代表はその後、カタール大会まで7大会連続出場をしている。牛久さんは2014年のブラジル大会まで12回連続して現地取材を続けた。
実は休暇を取って自費でW杯を取材してきた日本の新聞記者は、筆者が知る限りでほかにもいる。毎日新聞の荒井義行記者(85歳)は1974年の第10回西ドイツ大会から取材を続けてきた。新聞社が旅費、滞在費を支給して取材するようになったのは90年の第14回イタリア大会からだという。
牛木さんや新井さんのように、自腹を切っても現地で取材をしようという、サッカーに取りつかれた記者たちが築き上げた伝統の上に現在のW杯人気があることを忘れてはなるまい。
平成の時代から続く慢性的な不況に追い打ちをかけたコロナ禍……。 国民全体が「我慢」を強いられ、やり場のない「不安」を抱えてきた。 そうした日々から解放され、感動をもたらす不思議な力が、スポーツにはある。 中でもサッカー界にとって今年は節目の年だ。 30年の歴史を紡いだJリーグ、日本中を熱気に包んだ20年前のW杯日韓大会、 そしていよいよ、カタールで国の威信をかけた戦いが始まる。 ボール一つで、世界のどこでも、誰とでも──。 サッカーを通じて、日本に漂う閉塞感を打開するヒントを探る。