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2009年5月6日

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下條正男 (しもじょう・まさお)

拓殖大学教授

國學院大學大学院文学研究科博士後期課程修了。1983年、韓国の三星グループ会長秘書室勤務。1994年、市立仁川大学客員教授。1999年から拓殖大学国際開発研究所教授。著書に『日韓歴史克服への道』(展転社)や『竹島は日韓どちらのものか』(文藝春秋)などがある。

根拠薄弱な韓国の主張

 竹島が日本領となるのは1905年、無主の地であった無人島が竹島と命名され、閣議決定を経て島根県に編入されたことに遡る。ところが韓国政府は52年1月18日、突然「李承晩ライン」を宣言して竹島を韓国領とし、54年以来、武力占拠を続けているのである。それどころか竹島の島根県編入を侵略とする韓国側は、日本側が竹島問題に触れると、05年の竹島の島根県編入に続く「第二の侵略」と憤慨してきた。では日韓のどちらの言い分が歴史の事実に近いのだろうか。

 韓国側の説明では、竹島は6世紀から韓国領であった。一方で日本は1905年、国際法に基づいて竹島を日本領としたが、歴史的には17世紀、幕府から欝陵島への渡海許可を得た鳥取藩米子の大谷、村川の両家が、竹島を利用することがあった。

 では竹島の日本領編入を「侵略」とする韓国側の歴史的根拠は、どこにあるのか。韓国側の根拠は、1770年に成立した『東国文献備考』にある。そこには「輿地志(よちし)に云う、欝陵・于山(うさん)、皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂(いわゆる)松島(現在の竹島)なり」とあるため、韓国側では于山島を今日の竹島とし、竹島を欝陵島の属島としてきた。韓国側が竹島を6世紀から韓国領とするのは、于山国(欝陵島)の新羅編入が512年だったからである。

 だが『東国文献備考』に引用された『輿地志』(1656年成立)の原本を確認すると、『輿地志』には「于山欝陵本一島」(于山島と欝陵島は同じ島)とあるだけで、松島に関する記述はない。これは『東国文献備考』の引用文が書き換えられていた、ということだ。ヒントは、「于山は則ち倭の所謂松島なり」の「所謂松島」にある。これは1693年、米子の大谷家の漁師が安龍福等と欝陵島で衝突し、欝陵島の帰属問題に発展した際、安龍福が「松島は于山島だ」と供述していたからである。

 だがこの事件を機に朝鮮政府は欝陵島調査を実施し、安龍福が松島とした于山島の位置を確認している。それが1711年、官命を受け、欝陵島を調査した朴錫昌(パクソクチャン)の「欝陵島図形」である。そこでは欝陵島の東約2㌔メートルの竹嶼に「所謂于山島」と注記がなされ、その地理的認識は1899年、大韓帝国が刊行した「大韓全図」にも踏襲されている。その間、欝陵島から90㌔メートルも離れた竹島は、調査の対象外にあった。

 この事実は、歴史的にも地理的にも、竹島は韓国領ではなかったということである。それを韓国側では、日本側が竹島の領有権に触れると「第二の侵略」と騒ぎ、日本を侵略国家とすることで国際世論を味方に付けようと画策したのである。

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