ペコペコ・サラリーマン哲学

2009年8月10日

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 広島、長崎。今年もふたつの「原爆の日」が過ぎました。そしてもうすぐ、あの8月15日がやってきます。今回は、戦争について、お話したいと思います。

 私は1945年の終戦のとき、9歳でした。あの8月15日、天皇陛下の敗戦のお言葉を伝えるラジオの玉音放送を聞いたとき、私は、正直に言って「よかった。嬉しい」と思いました。

 ああ、これでもう、この殺し合いの苦しい戦争は終わったんだ、私の家族も死ななくてすむ、そう思いました。

 みんな、口には出しませんでしたが、大人たちもそう思っていたと思います。

 ほどなくして、アメリカの進駐軍がやってきました。兵隊さんのことを、つけていたマークからMPと呼んでいました(MPはミリタリーポリスの略ですからアメリカ版の憲兵さんです)。彼ら彼女らはすごく優しく、いばりませんでした。そうするのが作戦だったのでしょうが、集まってきた私のような子どもたちに、チューインガムやチョコレートを笑顔でくれました。

自由を追求するアメリカ

 MPのほうが、日本の憲兵よりずっといい、と思いました。戦時中の憲兵はそれほど恐ろしかった(大人たちが怖がってました)のです。

 戦時中の日本は、あとで大人になって考えると、まさに「物言えば唇寒し」で、国の方針に反することは何も言えませんでした。

 ああ自由って素晴らしいんだな、子ども心にも「自由」のありがたさ、とくに「言論の自由」の素晴らしさは、なんとなく理解できました。大人も子どもも、何でも言える「自由」は何事にも代え難い、ということを、肌身で感じていたと思います。

 しかし、アメリカに対する感情は、もっとも大事な気持ちである「自由」を体現する国、とだけ言い表されるような単純なものではありません。もっともっと複雑です。それを説明するには、私の家族のことをお話しするのがよいかもしれません。

 私の義兄(姉の夫)は、原爆が広島に落ちたあの8月6日、爆心地の近くのところにいました。教師になるために、広島文理科大学(いまの広島大学)で学んでいたのです。

 そのころ義兄は30歳くらいでした。東京池袋の豊島師範学校(長兄と同級)を出て、小学校の教員になりましたが、高校生や大学生を教えたいと、たまたま一人だけ学生を募集していた広島文理科大学に入学しました。たいへんな苦労人でした。

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