母と、15歳年上の姉と、私は、1943年から、長野市に疎開していました。私の姉はまだ結婚しておらず、広島にいた義兄とは婚約者の間柄にありました。
そして、広島に爆弾が落ちたというニュースが届きました。姉はがっくりして、何日もいつまでも泣き伏していました。
爆心地にいた義兄
2~3週間たって突然、義兄が長野の我が家にあらわれました。服装はぼろぼろで、全身傷だらけでしたが、火傷はないようでした。姉は「生きていたのね・・・」とびっくりしてとても喜びました。
義兄はのちに、その日のことをこう話してくれました。
校舎の2階にいたら、突然の爆風で何メートルも吹っ飛ばされ、校舎は崩れ落ち、気づいたらがれきの下だった。がれきの間から遠い一点の空をみつけ、やっとのことで這い出ることができた。木造校舎だったから助かったが、コンクリートだったら死んでいただろう。しかも、たまたま、厚い白い壁の裏にいたことが幸いした。白壁が、閃光や放射線を完全にさえぎってくれたんだと思う――。
こんなことをしたアメリカという国を、許さない、と思いました。しかもアメリカ人は、「日本は軍国主義だから、原爆を落とさなければもっと被害が拡大したはずだ。戦争を早く終結させるためには原爆は必要だった」そう言っています。
そんな考え方は許せない、と思いました。私は、あんな残虐な爆弾をふたつも落としたアメリカはけしからん、と青年時代もずーっと思い続けてきました。
私は、大人になっても歴史がずーっと苦手で、それを克服するために年号のゴロ暗記方法を40歳頃から考え続けてきました。それを『楽しく覚える日本史年代「ゴロ合わせ」』(中央経済社)という本にまとめました。そのなかで、1945年を「原爆でひど(1)く(9)よご(45)され」と書きました。こじつけではありますが、こうすることで、アメリカへの許せない気持ちを、少しは晴らしたいと思ったのです。
アメリカが、あんな恐ろしい原爆を落としたことは、絶対に許されるものではない。でも、一方で、人間にとってもっとも欠かせない「自由」を追求しているすばらしい国でもある――私より年上の、戦争をもっと知っている世代は、アメリカに対して、そういうふたつの相反する感情を抱いてきていると思います。
◆
戦争は、ほんとうに苦しく、辛いものです。
私には先の姉の他に、兄が二人います。私は遅く生まれた子どもだったので(父の54歳、母の41歳のときの子)、長兄は18歳、次兄は12歳、私と離れていました。
次兄は1942(昭和17)年に、前橋の陸軍士官学校に入学しました。