今月の旅指南

2009年10月24日

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辻 一子 (つじ・いちこ)

岡山県生まれ。フリーライター。旅行会社のPR誌の編集者を経て、1998年からフリーランスに。旅の雑誌を中心に活躍。

京都国立博物館で開催中の「日蓮と法華の名宝―華ひらく京都町衆文化」では、琳派や狩野派の手による華やかな法華芸術が注目を集めています。展覧会の監修を担当された立正大学名誉教授の中尾堯(たかし)氏に、日蓮宗と京都の芸術家たちとの意外な関係についてうかがいました。

立正大学名誉教授 
中尾尭氏

――今回の展覧会で、狩野元信、長谷川等伯、本阿弥光悦〔ほんあみこうえつ、俵屋宗達、尾形光琳、尾形乾山〔けんざんら、そうそうたる顔ぶれの京都の芸術家たちが法華信仰者だったことを知り、驚きました。

中尾教授:芸術家だけでなく、京都の町衆の多くが日蓮宗(法華宗)だったんですよ。京都に日蓮宗が広まったのは14世紀の初頭、日蓮の孫弟子にあたる日像が布教活動を行ったのがきっかけですが、15世紀半ばになると日親が登場し、町衆のみならず公家の間にも信徒が増え、やがて「二十一本山」が洛中に甍〔いらか〕を競うほど盛んになります。16世紀の終り頃には上京の法華信仰者の数は人口の6割を占めていたといわれているんですよ。

――日蓮宗が京都の町衆に受け入れられたのはなぜですか?

日蓮聖人の「祖師御尊像」を奉安する杉並区高円寺にある妙法寺。日蓮の命日10月13日に行われた法要・お祭りの様子

中尾教授:日蓮は「立正安国論」で何を主張したかというと、単に日蓮宗を広めようとしたのではなく、皆が繋がり合う世界をめざしていたんです。その世界は現世だけでなく、宗教的な宇宙の世界にまで広がっていくと――。社会をリードする立場の人たちが正しい道を歩けるよう、当時の為政者に訴えた。 一方、京都の富裕な町衆たちは、武力ではなく「富」で自らの町を治めようとした。民衆が連帯の世界をつくるのに、仏教への信仰を支えとして民が団結していくという日蓮の教えがうまく合致したのです。しかし、信徒が増えるに連れてさまざまな弾圧が加えられるようになった。それが逆に、彼らの連帯を深めたといえるでしょう。

――町衆のなかでも、本阿弥家一門は特に日蓮宗に深く帰依していたそうですね。

中尾教授:本阿弥家は、光悦の祖父である本阿弥清信が足利義政によって獄につながれ、その獄中で日親と出会ったのを機に熱心な法華信者になったんですよ。代々、刀剣の研ぎ・ ぬぐ い・鑑定を専門としていた本阿弥家は、京都の町衆のトップクラスの家柄で、日親が本法寺を創建した時、資金面で協力をしたともいわれているんです。こうして法華信仰で結びついた京の有力町衆は、やがて華やかな都の近世文化を創り出します。

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