自己啓発を欠かさなかった 
若き秋山真之

(2)理論構築は不断の努めあればこそ


三浦康之(みうら・やすゆき)
1934年、満州国新京市生まれ。早稲田大学政経学部政治科卒。日本航空を定年退職後、著作をはじめる。著書に、『碁、このアジア的経営パラダイム』『甦る秋山真之』(上・下)、『満鉄と東インド会社、その産声』(いずれもウェッジ)、『戦略で勝てるか――体験的経営戦略論』『司馬遷流「イスラーム史記」』(いずれもエイチアンドアイ)など。

秋山真之に学ぶ名参謀への道

 日露海戦を勝利に導いた軍略家として名高い秋山真之。その活躍ぶりは司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』によって広く知られている。東郷平八郎をして「智謀湧くが如し」と言わしめた秋山の軌跡を辿ると、組織において参謀という存在がいかに大切かが分かる。
翻って、現代の企業にも秋山のような名参謀が必要である。大手航空会社で企業参謀としての研鑽を積み、歴史上のリーダーについても著書の多い著者が、秋山真之の軌跡を読み解きながら名参謀への道を説く。

»最新記事一覧へ

  秋山真之は「土州下陣」した松山藩士の家に、知識人の父と賢夫人の母の5男として生まれ、頼りになる兄好古〔よしふる〕と学友正岡子規にめぐまれました。名参謀となるのには願ってもない生い立ちです。しかし、真之ほどの生い立ちは、ほかにも数えきれないほどあったでしょう。そのだれもが名参謀になれたわけではない。

 自戒のことばがあります。

 「自啓自発セザルモノハ、人教ヘタリトモ実施スルコト能ハズ」
                                        (天剣漫録16)*

 明治14年、松山中学に入った14歳の真之少年は適当にやっていました。

 1年生の成績は47名中の8位、少し反省して2年生では4位、またたるんで3年生は7位、卒業の年は発憤して一番になった。なぜか。

 親友の正岡子規が外務省に勤める叔父の加藤拓川に呼ばれて上京したからです。

 「松山中学ハ只ダ虚名。地ニ良師スクナク孰ニ従ッテカ聞カン」

 東京の予備門に入って東京帝大をめざすと自慢します。真之はうらやましくて仕方ない。だが秋山家は貧乏で余裕がない。真之は作戦を立てます。

 ――兄好古が陸軍大学へ入るらしい。松山中学で一番になれば呼んでくれるかもしれない。

 そう目的を定めると、「自啓自発」に集中してたちまち一番となった。

 「虚名ノミ」と子規はけなしていますが、当時の松山中学では、バーレーの万国史、ミルの自由の理、チャンバーの経済書、クエッケンボスの米国史、ハチソンの生理学、クエスケンジスの物理書、グッドリッチ博物学、ウエイランドの修身書などを英語の原書で教えていた。かたや、『春秋左氏伝』、『十八史略』、『日本外史』、『資治通鑑』、『文章規範』はどの漢文の古典も教えています。翻訳の教科書を使うようになってからむしろ、日本の教育の質がおちました。

 あなたは英文の原典をなにか読んでおられますか。

「自啓自発」はいずれ実施のため

 海軍兵学校の入試試験でも、秋山真之の成績は88名中の15番です。だが、2年目からはずっと首席で通しました。最上級の1号生のとき、伊予の後輩竹内重利(のち中将)が入校してきた。過去5年間の試験問題と解答を与え指導します。

*天剣漫録:秋山真之が若い自分、軍人としての心構えをノート類に書きつけていたもの。
1
nextpage
このエントリーをはてなブックマークに追加
 
「秋山真之に学ぶ名参謀への道」

WEDGE Infinity S
ウェッジからのご案内

Wedge、ひととき、書籍のご案内はこちらからどうぞ。

  • WEDGE
  • ひととき
  • ウェッジの書籍