定年バックパッカー海外放浪記

2018年3月18日

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高野凌 (たかの りょう)

定年バックパッカー

1953年生まれの62歳。横浜生まれ、神奈川県出身。大学卒業後は商社、メーカー勤務を経て2013年定年退職。2014年春から海外放浪生活を始める。放浪歴は地中海、韓国、インドシナ半島、インドネシア、サンチアゴ巡礼など。サラリーマン時代は主として海外業務に従事。ニューヨーク、テヘラン、北京にて海外駐在を経験。身長170センチ、57キロ。獅子座。A型。現在2人のご子息は独立し、夫人との2人暮らし。孫1人。

日本人墓地に眠る人々

 11月19日。路線バスを乗り継いでコタキナバル(KK)郊外の日本人墓地を訪ねた。バスの運転手や地元の住人にも知られているらしく、「Japanese Cemetery」と尋ねると親切に案内してくれた。

KKの日本人墓地は郊外の幹線道路脇の小高い丘の上にあった

 墓地はトゥアラン通り沿いの小高い場所の木陰にあった。新しい階段を上ると、フェンスで囲われて、きれいに管理された敷地の中に墓碑が並んでいた。墓碑で故人の名前が判読できたのは3基だけであった。

 一番古い墓碑は“城於雪”と読めた。なお、2番目の漢字は実際には左の偏は“方偏”ではなく“手偏”であった。後日、漢和辞典で調べると手偏の字は“於”の俗字である。そうすると名前は「おゆき」と読める。「おゆきさん」と呼ばれていたのではないかと想像した。

「城於雪之墓」とある墓碑

 墓標の裏には“山口縣熊毛郡人 明治43年5月11日卒”とあった。調べると近年熊毛郡は周南市に併合されたようだ。明治43年(1910年)5月には日本で大逆事件が起こり、10月には日本が韓国を併合して朝鮮総督府を置いている。そんな時代にひっそりと遥か南洋の地で「おゆきさん」は亡くなったのだ。

無名日本人の墓が並ぶ右には「in memory of MATSUE」(マツエの思い出)と刻まれた墓碑があった

 次の墓標は日本語とローマ字で記されている。日本名は“●中マツエ”とある。英文でMATSUE P.Samuelの娘と記載。●は判然としないが“浜”のようにも読めた。“ハマナカ・マツエ”であろうか。1917年7月10日生、1927年2月21没とあるので10歳で亡くっている。

日本領事館事務所が最近整備した日本人墓地の表示板

 英国人のサミュエル氏が日本人女性との間にもうけた子供のようだ。どのような経緯から結婚したのか分からないが、“からゆきさん”に関する記録を読むと当時のボルネオ植民地では、女性が少なかったので英国人などが“からゆきさん”を身請けして妻にすることが多々あったようだ。

 3つ目の墓標は新しく、昭和41年にキナバル山登山で大怪我をしてKKのエリザベス記念病院で亡くなった22歳の学生である。父君がお墓を建てたと記載があった。

 その他に墓石が十数基あったが、全て“無名日本人之墓”と墓碑に刻まれていた。昭和51年に墓地を整備したときに、名前が判読できない古い墓を“無名日本人之墓”として祀ったことを後日知った。十数名は名前も没年も不詳のまま眠っていた。

“からゆきさん”とはどのような人々なのだろうか

 ウィキペディアによると“からゆきさん”とは幕末から明治、大正、昭和の初めにかけて主に東南アジア・東アジアに渡った日本人娼婦たちをいう。渡航先は、さらにシベリア、満州、北米、アフリカまで広がっていたようだ。出身地は西日本が多く、長崎県島原半島や熊本県天草諸島などの海沿いの寒村の出身者が多かった。

 貧しい家の少女が女衒に売られて借金返済のために海外の娼館で働いたが、苛烈な気候風土で病死するものが多く、研究者の説によると、平均寿命は20歳くらいだったという。当時の女性の平均寿命の半分以下である。その総数は20万人とも30万人とも言われているが、正確な人数は統計もなく不詳。

 40年以上前に上映された“望郷 サンダカン8番娼館”という映画を覚えている人もいるだろう。天草の寒村で金のために女衒に売られてボルネオの娼館に売り飛ばされた北川サキ(おサキさん)という実在の女性の半生を描いた作品である。

 サンダカンは北ボルネオでKKと並んで昔から栄えてきた港町である。KKの日本人墓地を訪れ、無名日本人の多くは“からゆきさん”ではないかと推測した。

100年以上も昔に亡くなった“無名日本人”とは

ボルネオ派遣軍戦友会が建立した慰霊碑。日本兵の遺骨は現在のエリザベス 記念 病院近くに埋葬されていたが厚生省支援遺骨収集団が日本に持ち帰ったという

 このお墓の来歴を知るべく、後日、KK日本人会に照会してみたが判然としない。管理者はKKの日本領事事務所であるというので、海辺にある日本領事事務所を訪問した。由来を聞いたところ、1963年(昭和38年)に日本領事館員により墓地の存在が確認されたという。発見当時、墓地は荒れていて墓石も転がっている状況だったという。そうした状態で墓碑銘が判読不能な墓は“無名”とせざるを得なかったと聞いた。

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