明治の反知性主義が見た中国

2018年10月22日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

高杉らを乗せた千歳丸による上海訪問から10年を経た明治5(1872)年、明治政府の外務卿・福島種臣は日清修好条規批准書交換のために清国に旅発つ。両国の国交が開かれたことにより、伊藤博文を筆頭とする政治家、外交官、軍人、学者、文人、経済人など多彩な明治人が大陸を訪れ様々な思いを綴っている。彼らの多くは“表玄関”から清国を訪れ、外交・経済・文化などを中心に“大上段”から清国を捉え、両国関係を論じた。

日清修好条規批准書交換は、じつは名も無き市井の人々にも大陸旅行の機会を与えたのである。それまで書物でしか知ることのなかった「中華」を、彼らは自ら皮膚感覚で捉え書き留めようと努めた。

かりに前者を清国理解における知性主義とでも表現するなら、後者は反知性主義と位置づけられるだろうか。これまで知性主義による清国理解は数多く論じられてきたが、反知性主義のそれにはあまり接したことがない。

歴史教科書で扱われることなどなかった明治人による反知性主義的清国理解を振り返ることは、あるいは知性主義の“欠陥”を考えるうえでの手助けになるのではないか。それというのも、明治初年から現在まで知性主義に拠って律せられてきた我が国の一連の取り組みが、我が国に必ずしも好結果をもたらさなかったと考えるからである。もちろん反知性主義だからといって、その結論が現在の我が国メディアで喧伝されがちな中国崩壊論に、あるいは無条件の中国礼讃論に行き着くわけでもないことは予め断わっておきたい。

iStock / Getty Images Plus / Vepar5

※なお原典からの引用に当たっては、漢字、仮名遣いは原文のままに留め、変体仮名は通常の仮名(たとえば「ヿ」は「こと」)に、カタカナはひらがなに改めることを原則としておく。

 高橋謙は日清戦争が勃発した明治27(1894)年に『支那時事』(嵩山房)を著す。自ら「明治十七年以來久しく清國の内地に在」って、南は広東から北は河北・山東一帯、西は四川までを歩き、多くの友人と交わり「人情風俗を察し聊か得る所」があったと綴る。

 朝鮮問題を巡って日清間が緊張している「此際、彼國が果して如何の状態にあるかは世人の方に知らんと欲する所なるべき」であると説き、自らの見聞を『支那時事』に纏めた。

 康熙・乾隆両帝の時代、「武威赫々亞細亞各邦を壓し其國勢宛も東天に輝く」清国だったが、「既に廢然として死に濱せる病者」である。だが、だからといって軽んずべきではない。「富裕にして廣大なる國土と衆多にして忍耐なる人口を占有せる支那種族」の動向に対し、自国本位の結論を短兵急に導き出すことは危険極まりない。やはり「将來實に恐るへき者」となる可能性は大であり、政府はダメでも「衆多にして忍耐なる人口を占有せる支那種族」を甘く見てはいけないと、同胞を諫める。

 いまや列強は軍備を固めながら通商を求め、世界各地で友好関係構築を目指す。その行動は「蜜の如く」甘く、「蛇蝎」のように恐ろしい。列強が勝手に定めた国際法の前では、弱国は常に不利益を被る。いまは「感情の激する所」によって「(日清)兩國民互に仇敵相見」ているが、弱肉強食の国際社会での「日支兩國の将來」を想定するなら、今後は「我帝國たる者一層進て彼我の關係」に心を砕き、やはり両国民が「相助け輔車相倚の政策を取」るべきである。

 ――このような考えに至った高橋の大陸旅行は、先ず「長崎より水路凡そ五百英里」に位置する上海から始まった。

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