中国という鏡に映った日本人の自画像

2018年4月28日

»著者プロフィール
閉じる

樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

文久2(1862)年、高杉晋作ら幕末の若者は幕府が派遣した千歳丸に乗り込み、激浪の玄界灘を渡って上海に向った。アヘン戦争の結果として結ばれた南京条約締結(1842年)によって対外開放され20年が過ぎ、上海は欧米各国の船舶が蝟集する国際都市に大変貌していた。長い鎖国によって生身の人間の往来が絶たれていたこともあり、日本人は書物が伝える“バーチャルな中国”を中国と思い込んでいたに違いない。その後遺症に、日本は悩まされ続け、現在に至るも完全治癒とは言い難い。

上海の街で高杉らは自分たちが書物で学んだ中国とは異なる“リアルな中国”に驚き、好奇心の赴くままに街を「徘徊」し、あるいは老若問わず文人や役人などと積極的に交流を重ね、貪欲なまでに見聞を広めていった。

明治維新から数えて1世紀半余が過ぎた。あの時代の若者たちの上海体験が、幕末から明治維新への激動期の日本を取り巻く国際情勢を理解する上で参考になるかもしれない。それはまた、高杉たちの時代から150年余が過ぎた現在、衰亡一途だった当時とは一変して大国化への道を驀進する中国と日本との関係を考えるうえでヒントになろうかとも思う。(⇒前回から読む

 納富介次郎の上海体験を、もう少し続けてみたい。

 納富は、上海では各所を歩き見聞したものを記録すれば、幕府の対外政策の一助になろうと考える。だが到着直後に病を得て当初の目論見は外れてしまう。ところが、太平天国軍から逃れて上海に押し寄せる多くの難民の中に、日本が欧米諸国とは違って儒教を尊び漢字を使っていることを知った知識人がいた。彼ら知識人が、思いがけずに納富らに接触を求める。そこで親しく付き合うようになり、色々と情報を聞き出すこととなるのだが、ということは日本人が漢字を使い、儒教に慣れ親しんでいることを知らない知識人がいたということだろう。彼らもまた、日本についての確たる情報を持たなかったということか。

(iStock.com/Lex20)

五代友厚の見た「太平天国」と「英仏」の戦い

 同行者の中には高杉はじめ筆談で清国人と対応できる者もいれば、清国語に慣れた通訳もいたから、清国政府の動向などについても知ることができた。納富は同行者の中の「薩州ノ五代才助」、つまり後の五代友厚に言及する。身分を隠し「水手(船乗り)」となって千歳丸に乗り込んだ五代は単独で行動し、時に遠く上海の東郊まで足を延ばし、浦東というから現在の上海国際空港辺りにおける太平天国軍との戦争を見物している。おそらく五代は、英仏軍の近代兵器が持つ凄まじいばかりの破壊力に驚いたに違いない。ところが五代は、浦東での戦況視察の一件を長崎に戻った後に明らかにした。

 そこで納富は、全員が上海で得た情報を集大成すれば、より有益な情報が得られたはずなのに、そうできなかったのは自分の微力のゆえであると綴った。情報は個々人が私蔵するものではなく、共有し集大成することで“化学変化”を引き起こし、より有益な情報になることを、納富は説きたかったのだろう。

 上海には欧米から貿易を求めて多くの船舶がやってきて商売は賑わっているものの、欧米商人は書画筆墨には興味を示さない。そこで「書畫ト文房ノ具」に興味を持つ日本人のところに数多くの「掛軸幅古器ナド」が持ち込まれる。ところが「固ヨリ僞物ノミ夥シクアル」から不要と応えるが、「彼強ヒテ眞物ナリト辯ジ勧メ」る。そこで「日本人ハ皆眞眼ヲ具セリ、汝等欺クベカラズト云ウ」と、最終的には彼らは品物を包んでスゴスゴと引き上げて行く。

関連記事

新着記事

»もっと見る