幕末の若きサムライが見た中国

2018年4月14日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

 【承前】文久2(1862)年、高杉晋作ら幕末の若者は幕府が派遣した千歳丸に乗り込み、激浪の玄界灘を渡って上海に向った。アヘン戦争の結果として結ばれた南京条約締結(1842年)によって対外開放され20年が過ぎ、上海は欧米各国の船舶が蝟集する国際都市に大変貌していた。長い鎖国によって生身の人間の往来が絶たれていたこともあり、日本人は書物が伝える“バーチャルな中国”を中国と思い込んでいたに違いない。その後遺症に、日本は悩まされ続け、現在に至るも完全治癒とは言い難い。

 上海の街で高杉らは自分たちが書物で学んだ中国とは異なる“リアルな中国”に驚き、好奇心の赴くままに街を「徘徊」し、あるいは老若問わず文人や役人などと積極的に交流を重ね、貪欲なまでに見聞を広めていった。

 明治維新から数えて1世紀半余が過ぎた。あの時代の若者たちの上海体験が、幕末から明治維新への激動期の日本を取り巻く国際情勢を理解する上で参考になるかもしれない。それはまた、高杉たちの時代から150年余が過ぎた現在、衰亡一途だった当時とは一変して大国化への道を驀進する中国と日本との関係を考えるうえでヒントになろうかとも思う。

 1年ほど前に連載をはじめたものの、筆者の個人的事情から数回で中断していた高杉たちの上海での足跡を追う旅を再開したい。当然のように、既に記した部分と重複することがあろうかとは思うが、ご容赦のほどを願います。

(aduchinootonosama/iStock)

なぜ外国兵に自国の防衛を委ねるのか?

 佐賀藩の支藩である小城藩出身の納富介次郎も、この旅に加わっていた。天保15(1844)年の生まれだから、千歳丸に乗り込んだ頃は20歳になってはいなかった。彼が記した『上海雑記 草稿』(東方学術協会『文久二年上海日記』全国書房 昭和21年)を基に、納富の目に映った上海の姿を見ておきたい。

 その後、彼は明治2(1869)年に大阪佐賀藩商会の一員として再び上海へ。ウィーン万博(明治6=1873年)、フィラデルフィア万博(明治9=1876年)に参加し、美術工芸品輸出に尽力した後、石川、富山、香川、佐賀などで工業・工芸教育に努めた。大正7(1918)年の没。因みに彼がDesignを「図案」と翻訳したと伝えられている。

 上海に上陸してまず気になったのが、「城門ヲ英佛二國ノ兵卒ヲ請フテ守ラシムルコト」であった。第2次アヘン戦争(アロー戦争/1856年~60年)に敗北したことで結ばされた北京条約に基づくとはいえ、やはり納富は外国兵に自国の防衛を委ねることに得心がいかなかったようだ。

 そこで「清人等ニ對シ、中國如何ゾ外夷ノ力ヲ借リテ城壘ヲ守ルヤ」と問い掛けたわけだが、「皆黙ス」のみ。

 それもそうだろう。海の向こうからやって来た異国の若者に、突然、お前の国はなってないじゃないか。自分の国は自分で守るべきだろうなどと吹っかけられたら、取りあえずは口籠るしかなかったようだ。

 しばらくの沈黙の後、太平天国軍の第一波攻撃を受けた1861年には清朝軍による上海防備が整っていなかった。そこで「止ムコトヲ得ズ英佛ノ兵ヲ借リ」たとの答えが返ってきた。

 これに対し納富が「然ラバ何ゾ洋人跋扈ノ甚シキヲ制セザル。コレ清朝ノ却テ外夷ニ制セラルゝトコロニアラズヤ」と畳みかける。

 そうかもしれないが、ではなぜに西洋人をのさばらせておくのだ。それこそが清朝が紅毛碧眼の「外夷」に頭を押さえつけられる由縁だろう、と。すると「皆答フルコトナシ」であった。

 千歳丸には数名の通訳が同行していたから、あるいは彼らを介しての会話だったとは思われるが、かりに筆談であったら、さぞや怒りに任せて殴り書きしたことだろう。

 上海の街を歩いての第一印象を、「上海市坊通路ノ汚穢ナルコト云フベカラズ。就中小衢問逕ノゴトキ、塵糞堆ク足ヲ踏ムニ處ナシ。人亦コレヲ掃フコトナシ」と綴る。街は汚い。殊に裏通りなんぞはゴミや糞便がてんこ盛りで歩けやしない。ところが郊外はもっと酷かった。 

 一歩郊外に出ると一面の広野には草が生い茂り、道が没して見当たらない。そのうえ、棺が転がっている。「只棺槨縦縱橫シ、或ハ死人蓆ナド包ミテ處々ニ捨テタリ。且炎暑ノ頃、臭氣鼻ヲ穿ツバカリナリトゾ。寔ニ清國ノ亂政コレヲ以テ知ㇽベシ」。

 つまり棺桶は埋葬されずに地上に放り出され、蓆に包まれた死骸はそこここに捨てられている。雨風に曝されて棺は壊れ、蓆は破れ。夏の日盛りには臭気が鼻を衝き堪えられたものではない。ここからも「清國ノ亂政」は見て取れる、というのだ。

 同じ頃に日本の各地を歩いたイザベラ・バードなど欧米人は、街といわず村といわず、貧しくも明るく清潔な日本の姿に讃嘆の声を残している。そんな日本からやってきた納富からすれば、耐えられそうにない汚さだったに違いない。人は腰抜け、街の裏通りにはゴミと糞便、郊外に出れば打ち捨てられたままの棺や蓆に包まれた死骸、そのうえ飲み水は汚れている。だが、これが孔孟の生まれた国の偽らざる現実だったのである。

 「此度ノ上海行、最モ艱苦ニ堪ヘザリシハ濁水ナリ」。緩慢な茶褐色の流れに遡上する海水が交じり合う。流れが淀むのは当たり前だが、「ソノ上ニ土人死セル犬馬豕羊ノ類、ソノ外總ベテ汚穢ナルモノヲ江に投ズル故、皆岸邊ニ漂浮セリ。且又死人ノ浮カベルコト多シ。コノ時コレラ病ノ流盛ンナリシニ、難民等ハ療養ヲ加フルコト能ハズ。或ハ飢渇ニ堪ヘズシテ死スル者甚ダ多シ。又コレヲ葬スルコトヲ得ズ。故ニコノ江ニ投ズルナルベシ。寔ニソノ景様目モ當テラレヌ計リナリ」。

 ――様々な汚物に加え、家禽類やらヒトの死骸までが茶褐色の淀みに浮んでいる。劣悪な環境に加えて貧弱な医療施設である。これでは猛威を振るうコレラには対処しようがない。ただでさえ体力のない難民はバタバタと斃れる。だが、まともに埋葬はしてやれないから、勢い死骸を川に流すしかない。やがて死骸は海へ――

 だが上海の汚さは、この程度では済まなかった。

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