幕末の若きサムライが見た中国

2018年4月14日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

「尚コレニ加フルニ、數萬ノ舶船屎尿ノ不潔アリ。井ハ上海街中纔カ五六所アリト云フ。然モソノ濁レルコト甚シ。故ニ皆コノ江水ヲ飲ム。多クノ大瓶ニ汲ミタクハヘ、石膏或ハ礬石ヲ投ジ置ケバ、數刻ニシテ清水トナレリ」。

――汚い流れに「數萬ノ舶船」からの「屎尿」が垂れ流される。上海にある5、6カ所の井戸水は酷く濁っている。そこで飲料水は川から取るしかない。掬いあげた川水に石膏か明礬を入れて汚れを沈殿させ、上澄みの部分を飲むことになる――

 いくら幕末の若者であったとしても、こんな「清水」を口にする“蛮勇”は流石に持ち合わせてはいなかっただろう。かくて「素ヨリ飲狎レザル惡水ナレバ、皆病マザル者ハナシ」という最悪の事態になってしまい、不幸にして3人の船頭は病死してしまう。

 納富も病気になったが、佐賀藩出身で後に海軍軍令部長などを務めた中牟田倉之助(天保8=1837年~大正5=1916年)の介護によって事なきを得た。

 そこで納富は、「苟モ遠ク絶域ノ地ニ赴クニハソノ地理風土ヲ聞キ知リ第一時候ヲ考へザレバ、カクノゴトキ大難ニ逢フ」と猛省した。かくて「苦難ノ餘リニ嘆息」しながら考えを綴る。それを現代風に要約して“翻訳”すると、次のようになるだろう。

 ――だから中国にやってこようとするなら上海だけに限らず、長江を遡行して他の都市に停泊するか、天津や香港などに入港すれば「水患」に煩わされることもないはずだ。天津、香港に加え廣州、瓊州、潮州、厦門、福州、鎮江、寧浪、漢口、台湾、牛荘も通商港として開放されている。だから、これらの港に向えば多方面からの情報も入手できるし、清国に対する知見を広めることができる――

 沿海部にあって海外に向けて開かれた主要通商港をネットワークすることで生きた情報を収集し、清国に対する戦略を総合的に打ち立てようというのだが、鎖国の時代に生きた20歳前の若者とはいうものの、幕末という危機の時代でなければ生まれそうにない合理的な考えというべきかもしれない。ところが時代が下るに従って我が国の中国に対する見方は合理性や総合性から離れて、偏頗な独善性が目立つようになる。その要因はどこにあるのか。おいおい考えていきたい。

孔子よりも関羽を尊敬する

 街を歩くと多くの関帝廟に出くわす。「清國ノ俗、關羽ヲ尊敬スルトコロ宣聖ヨリモ優レリ」とするが、どうやら納富のみならず千歳丸の一行は、『三国志』の英雄で剛毅・赤誠の武門の神として知られる関羽が、じつは商売の神として信仰されてきたことを知らなかったようだ。商売の神であればこそ、市井の人々が「宣聖」である孔子より「關羽ヲ尊敬スル」ことは当たり前といえば当たり前。やはり「子曰く・・・」よりカネ儲けだろう。

 ところが「近年天主耶蘇ノ二教盛ンニ行ハレテ、愚民コレヲ尊ブコト孔聖關羽ヨリ更ニ超エタリ」と。それというのも「愚民」が「孔聖關羽ヨリ」は「天主耶蘇ノ二教」の方に現世利益を感ずるようになったからに違いない。

「耶蘇教内ノ唐人」の一般信者には学校を建設し教育を施し、あるいは病院を設けて医療に務めるなど民生向上を図る一方、成績優秀者には海外留学を体験させるなどして信者拡大をテコに中国社会への影響力を強めるため積極的に動いていたということだ。やがて留学組は帰国後に社会的地位を高め、中国から富を吸い取ろうとする「天主耶蘇ノ二教」の国々の手足となって動き回ることになる。欧米諸国の中国への取り組みは、日本よりも数10年も先行していたことを知るべききだ。

 にもかかわらず「土人等數年狎居ル西洋人ニハサモナク、初テ渡リシ我輩ヲ親シムコト眞ニ舊知ノゴトシ」であった。納富は、その理由を文字が同じだから筆談で意思疎通ができるからだろうと考えるが、結局は「倭漢ノ人心自然ニ相通ズル故ナルベシ」と推測する。さて、そういえるかどうかは別にして、やはり欧米人に較べて遥かに遅れてやってきた日本人は、中国人の眼にはやはり新奇に映ったのである。これまた“リアルな中国”というものだろう。

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