明治の反知性主義が見た中国

2018年9月14日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

高杉らを乗せた千歳丸による上海訪問から10年を経た明治5(1872)年、明治政府の外務卿・福島種臣は日清修好条規批准書交換のために清国に旅発つ。両国の国交が開かれたことにより、伊藤博文を筆頭とする政治家、外交官、軍人、学者、文人、経済人など多彩な明治人が大陸を訪れ様々な思いを綴っている。彼らの多くは“表玄関”から清国を訪れ、外交・経済・文化などを中心に“大上段”から清国を捉え、両国関係を論じた。

日清修好条規批准書交換は、じつは名も無き市井の人々にも大陸旅行の機会を与えたのである。それまで書物でしか知ることのなかった「中華」を、彼らは自ら皮膚感覚で捉え書き留めようと努めた。

かりに前者を清国理解における知性主義とでも表現するなら、後者は反知性主義と位置づけられるだろうか。これまで知性主義による清国理解は数多く論じられてきたが、反知性主義のそれにはあまり接したことがない。

歴史教科書で扱われることなどなかった明治人による反知性主義的清国理解を振り返ることは、あるいは知性主義の“欠陥”を考えるうえでの手助けになるのではないか。それというのも、明治初年から現在まで知性主義に拠って律せられてきた我が国の一連の取り組みが、我が国に必ずしも好結果をもたらさなかったと考えるからである。もちろん反知性主義だからといって、その結論が現在の我が国メディアで喧伝されがちな中国崩壊論に、あるいは無条件の中国礼讃論に行き着くわけでもないことは予め断わっておきたい。

iStock / Getty Images Plus / 4045

※なお原典からの引用に当たっては、漢字、仮名遣いは原文のままに留め、変体仮名は通常の仮名(たとえば「ヿ」は「こと」)に、カタカナはひらがなに改めることを原則としておく。

「支那人は自國を賛譽し誇稱して、外人を貶す」と自著の『支那漫遊實記』(博文館 明治二十五年)に記した安東不二雄は、明治24(1891)年9月に東京を発って「支那に渡」った。だが、「南清地方を漫遊中、今夏徴兵撿査の爲め呼戻され、遂に志を伸ぶる能はずして歸朝」している。この間の「滯留僅に數月」であり、「細状を悉くせんは至難」ではあったが、“何でも見てやろう”の好奇心に任せて大陸を歩いた。

 この年の5月には、来日中のロシア皇太子(後のロシア皇帝ニコライ2世)が護衛巡査の津田三蔵に切り付けられた大津事件が発生している。加えて日清戦争勃発は3年後である。日本はもとより清国でも緊張が高まっていたと思われるが、「滯留僅に數月」とはいえ、そんな内外状況のなかを徴兵検査前というから20歳前の若者が、いったい、どのような志を抱いて「支那漫遊」をしたものか。

「欧米経由の中国認識」に危機感を抱いた明治の若者

 安東は先ず「支那を視る日本人の眼孔」に疑問を抱く。

「是まで遠く數千里の彼方に在る、歐洲米洲の事情は、善惡となく巨細となく多くの邦人に知られつるに、僅に一葦水を隔つる、志かくも我れと最も親密の利害を有する、西隣舊交國の事情に就ては、却て我同胞の注意を惹くこと極めて冷然たりしは何ぞや」との義憤を抱く。次いで日本人は列島に縮こまってしまい、「拝西主義の潮勢に捲き去られども、隣邦の眞相は毫も其の眼孔を透ざらしをり」と続けた後に、「機敏英活の眼光を具せりといふ、日東國人*は、愚かにも淺慮にも、夢の如き眩惑に誘はれて、隣邦観察の大切なる職務を忘れしなり」。「日東國人」は目を覚ませ、である。

*日東國人…日本人

 どうやら安東は「拝西主義の潮勢」に圧倒され、「隣邦観察の大切なる職務を忘れ」る風潮に我慢がならず「支那に渡」ったらしい。それにしても明治中期、すでに「機敏英活の眼光を具せりといふ、日東國人は、愚かにも淺慮にも、夢の如き眩惑に誘はれて」、「拝西主義の潮勢」に翻弄されていたとは。ならば安東の時代から130年ほどが過ぎた21世紀初頭の現在と、さほど変わりはない。日本人にとって、「拝西主義の潮勢」は19,20,21という3世紀を跨いでも根治できそうにない業病なのか。

「拝西主義の潮勢」にもかかわらず、「數年の艱難辛苦を甞め」ながらも「隣邦観察の大切なる職務」に就く「陸軍士官若くは冒険的の少年」もいないわけではなかった。だが、「世に顯れしもの極めて少なし」。ここでいう「少年」は少壮血気の若者という意味に違いない。じつは早くも明治5(1873)年に清国に渡り、兵要地誌作りのために5年を掛け各地を歩いた陸軍中尉や陸軍工兵大尉がいた。彼らの調査の「結果は、納めて參謀本部の寶庫に在り」とのことだが、その後の経緯を考えるに、果たして“宝の持ち腐れ”にはならなかっただろうか。

 安東は当時の「拝西主義の潮勢」を示す傍証として、「橫濱より東方四千五百哩の桑港」と「長崎より僅に四百七十五哩に過ぎざる上海」の在留邦人を比較する。「三千餘」の前者に対し後者は「唯た八百人に上らず」。桑港(サンフランシスコ)在住者は「較や敎育ある人士」だが、上海は「其の大半は賤業の淫婦にあらざれバ、無識の無頼漢を以て充せるか故に、其の當國の事情を本國に通信するが如きは、固より望む可ならざりしなり」。

 さらに地理書をみても「善く支那の事情を記述するもの果して幾何かある」。「支那の事情を記述」した地理書がないわけではないが、それらは「數年以前、もしくは數十年前に、歐米人が著はしたる舊刊の地理書中より翻譯したものに過ぎ」ないし、「精密に確實に支那現時の事情を知るに足るべき著書の如きは、極めて欠乏せるにあらずや」。(なお、「精密」から「あらずや」までに強調の傍点が付されている)。学校における地理教育についても、「總て歐米に偏詳にして、支那、朝鮮、南洋等、重要なる近接隣邦の地誌には極めて冷淡なりしなり」と指摘する。

 我が国では、当時すでに欧米経由の中国認識が幅を利かせていた。これではいけないと、少なくとも安東という1人の明治の若者は義憤に駆られたに違いない。

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