明治の反知性主義が見た中国

2018年9月14日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

「一衣帯水・同文同種」はウソッパチ

 安東の観察は日常生活に転じた。

 先ず衣服。

「我國人の觀念に支那人とさへ言へば、唯醜汚なる粗服の装貌を有する如く想ふは、蓋し橫濱神戸等に於ける下等の出稼人のみを見慣れ居る故なる可し」。じつは「上等社會の服装は優に威重ありて日本服にも勝りて見ゆ」。だから「黒紋付の羽織の仙台平の袴にても着したる最上の日本服ならばよけれども、雙子織や浴衣等に木綿の兵兒帯などしめて、上海若くは香港等に上陸せば、耻づかしくて通行出來ぬ心地すべし」。だから日本人も洋服を着るべきだが、「但だ最良の日本服は洋服に勝りて支那人の尊敬を受くるなり」と。

 ここで興味深いのは、「橫濱神戸等に於ける下等の出稼人」が日本人の中国人観に与えた影響であり、そうした見方は誤りであると指摘している点だろう。どうやら当時既に、少なからざる「下等の出稼人」が海を渡って「橫濱神戸等」に出稼ぎにやって来ていたという事実は記憶しておいてよかろう。現在の横濱や神戸にみられる中華街は、「下等の出稼人」によって始まったということになりそうだ。

 次いで食事。

「支那人の食物は一般に鳥獸の肉を主とし、我國と同じく米を以て定食とす」る。内容を見ると上には上が、下には下がある。「街頭の車夫の如き勞働者は(粗末極まりないものを常食としているが)、なほ能く稼ぎ、且つ貯蓄する者あり。之を我國下等社會の職人等が、宵越しの錢は遣はずなといひて、金錢を濫消する者に比せば、彼の忍耐、節儉、勤勉の能力と習慣とに富み、處世に術に巧者なるは、頗る感心すべきものあるなり」。彼らの「忍耐、節儉、勤勉の能力と習慣とに富み、處世に術に巧者なる」振る舞いを指摘している。

 とはいうものの「實に支那人は料理に巧者なれども、一般に不潔汚穢なるには閉口なり、彼地に遊びてまづ此一點を尤も忍び難しとす」。かくて「要するに支那人の飲食、家屋及び其習慣は大いに我と其趣を異にせるものにして、寧ろ泰西風に近きものあり」。つまり一衣帯水・同文同種は明々白々のウソッパチだった。

日清貿易が低調な原因は「人材不足」

 関心は黄河、次いで天然資源に転じる。

 漢民族にとって母なる大河でもあり、人口が多く、農業が盛んな中国の中心を流れる黄河を、「海より上流二百五十里を越ゆれば、全く航行する能はず、目下に於ては、該河は全く世界に於て無用の長物とす」と酷評した。それというのも黄河の河道は泥に塞がれ、下流の大平原では河水が氾濫して大被害を及ぼすことは多いからである。「支那政府の浪費」が黄河の河道改修工事を妨げ、洪水を防げない。こうして、漢族の母なる大河である黄河は永遠に「人民不幸」をもたらす「無用の長物」となり果て、国家的不幸の根源になる。

 そこで「今や歐米の起業家、工學博士等は百難を排して内地に入り、黃河の河道を測量して、築堤の設計を遂げ、清政府に勸告して、其の斷行を迫りつヽあり。果たして成らんか、數千年の大患、茲に忽ち排除し去て、斯の東亞の大富源に永く洪水の患害を絶たん、亦可ならす哉」。だが、「歐米の起業家、工學博士等」は「數千年の大患」を取り除いて「人民不幸の永久滅せざる根源」を根絶しようというわけではない。やはり「東亞の大富源」を掠め取ろうという魂胆を持っているはずだ。ここでも日本は出遅れている。

 次いで「外國起業家等の垂涎羨々措く能わざる所」の「其の無量の鑛脈」である。

「深く内地に入り未開の山川を跋渉して精確の調査を遂げたる専門家及び宣教師等の報告に據るも。支那は到る處に石炭鑛を有し、鐵鑛を有し、又金銀の貴金屬を富める事明かなり」。ことに石炭などは「東洋市場は愚か、全世界の炭業を動かすに至る」可能性は大だが、「現今支那の鑛業は極めて幼稚にして未だ其の緒にすら就く能わざる」レベルだ。そこで「支那に在る歐米の起業家等相競て政府に勸告し、併せて其の特許を得て一攫千金せんとせり」。

 だから「日本の鑛業家も何ぞ奮て一葦帶水を渡り、斯の大陸の富源を開拓」すべきであり、「支那人は文明的學理の技術に暗きか故に、大學等にて專門の敎育を受けたる、工學士理學士等續々來りて設計創業する所あらば、自他の便益少なからざる可し」。清国政権の実力者である李鴻章にしても張之洞にしても、日本からの「遊歷者等に向ひ、此の事を相談したりと云ふ」。だが、それが実現しない。それというのも「我外交官中には敏腕治手を有する人に乏し」く、国益実現という本来の業務に関心を払わないからである。どうやら当時から「我外交官」の行動には問題が多かったらしい。

 当時、低調だった日清貿易の原因を、安東は「適當の人物を得ざるに在り」とした。だから日本の若者を中国商店で修業させ、「三四年間、言語習慣及び取引の實地に習熟せしめて、後商業に從事せしめれば好からんと云う人」がいる。これは良策とは思うが、じつは「支那人は秘密を重んじ、團結を貴ぶ人民なれば、外國人を自店に入れて商務を練修せしむるは同業者に對し、又自家營業の利益を保護する上に於て、決して爲す事を欲せさるなり。故に良策は遂に行ひ難きなり」と結論づける。その実例に「西京鳩居堂の手代某」を店に入れて筆造りの秘法を学ばせたことで、「日本人に中華の秘法を授けたりとて。仲間の攻擊を受くる事甚だしく、非常に後悔し居る」店があったことを挙げている。

 彼らの商法を「勤勉、節儉、忍耐にして、能く其業を永續し、同業者の一致團結心に富めるは、支那人の尤も他邦人に優出したる特風なり」と説く安東は、目標達成までは断固としてやり抜く彼らのビジネス作法に感服するのであった。

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