幕末の若きサムライが見た中国

2018年7月26日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

文久2(1862)年、高杉晋作ら幕末の若者は幕府が派遣した千歳丸に乗り込み、激浪の玄界灘を渡って上海に向った。上海の街で高杉らは自分たちが書物で学んだ中国とは異なる“リアルな中国”に驚き、好奇心の赴くままに街を「徘徊」し、あるいは老若問わず文人や役人などと積極的に交流を重ね、貪欲なまでに見聞を広めていった。

明治維新から数えて1世紀半余が過ぎた。あの時代の若者たちの上海体験が、幕末から明治維新への激動期の日本を取り巻く国際情勢を理解する上で参考になるかもしれない。それはまた、高杉たちの時代から150年余が過ぎた現在、衰亡一途だった当時とは一変して大国化への道を驀進する中国と日本との関係を考えるうえでヒントになろうかとも思う。

アヘン戦争 - War junks destroyed in Anson's Bay. Date: 7 January 1841(Mary Evans Picture Library/アフロ)

 中牟田倉之助(1837年=天保8~1916年=大正5)。海軍中将。子爵。海軍大学校長、軍令部長、枢密顧問官などを歴任。佐賀藩主・鍋島直正の推挙によって20歳の1856(安政3)年に長崎海軍伝習所へ。後、佐賀藩海軍方助役として海軍力発展に努める。中牟田の上海滞在時は25歳前後だから佐賀藩海軍方助役を務めていた頃と思われる。

 1868(慶応4)年に戊辰戦争が勃発するや奥州戦線へ参戦し、以後は北越戦争、函館戦争と転戦している。1869(明治2)年秋、慶應義塾入学。後に海軍に奉職し、草創期の海軍兵学校教育の基礎固めに尽力。日清戦争前、海軍軍令部長。清国の北洋艦隊の戦力を高く評価し、開戦に異を唱え、山本権兵衛ら開戦派によって軍令部長を解任された。彼の“敗北”によって、草創期海軍の二大派閥の一方の柱であった佐賀藩勢力は後退を余儀なくされ、以後の海軍主力は薩摩藩出身者が占めることになる。

 中牟田が残した『上海行日記』の現物を読むことはできなかった。だが幸いにも大正8年に中村孝也が著した『中牟田倉之助傳』に多く引用されていることを知った。そこで同書に基づいて中牟田の上海体験を追ってみた。

幕府の定めた「禁止事項」が興味深い

 千歳丸上海行き前後の長崎で大流行していた麻疹に、中牟田も高杉も罹ってしまう。発熱は止まず乗船は危ぶまれた。だが、鎖国の時代に外国を見聞できるという“千載一遇”の好機を逃すわけもなく、2人は無理を押して乗船する。中牟田の資格は「御小人目附 鹽澤彦次郎」の「從者」であった。

 中牟田は長崎抜錨前に幕府側から示された全14項目に及ぶ「乗組員可相守規則(互いに守るべき規則)」を記しているが、火気の取り扱いについて殊に厳しい。これは千歳丸が木造船だったことにもよるだろう。その他、航海中の水の使用制限、船内及び上陸時における自由行動の禁止、異国産品の購入制限などに加え、(1)「役人之許なくして、外國人え音信すべからず」と(2)「異宗之儀は、堅御禁制に付、相勸め候もの有之候とも、一切携申間敷く事」の2項目が興味深い。

 「外國人」との接触・情報交換は幕府が一元的に管理する。上海には当然ながら欧米人も多く滞在している。その欧米人は「堅御禁制」の「異宗」であるキリスト教信徒であり、上海に出向く千歳丸乗員に対し布教活動を試みることも考えられる――であればこそ、この2項目を加えたのだろう。異国においても鎖国の禁という原則を守らせようとする幕府の“苦肉の策”といったところか。

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