2024年4月19日(金)

幕末の若きサムライが見た中国

2018年7月8日

文久2(1862)年、高杉晋作ら幕末の若者は幕府が派遣した千歳丸に乗り込み、激浪の玄界灘を渡って上海に向った。上海の街で高杉らは自分たちが書物で学んだ中国とは異なる“リアルな中国”に驚き、好奇心の赴くままに街を「徘徊」し、あるいは老若問わず文人や役人などと積極的に交流を重ね、貪欲なまでに見聞を広めていった。

明治維新から数えて1世紀半余が過ぎた。あの時代の若者たちの上海体験が、幕末から明治維新への激動期の日本を取り巻く国際情勢を理解する上で参考になるかもしれない。それはまた、高杉たちの時代から150年余が過ぎた現在、衰亡一途だった当時とは一変して大国化への道を驀進する中国と日本との関係を考えるうえでヒントになろうかとも思う。

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 日比野輝寛(ひびの・きかん)。藤原輝寛とも呼ぶ。高須藩士。号は維城、また懽成。天保九(1838)年、美濃下石津郡高須村の原田家に生まれ、後に日比野家を継ぐ。名古屋、江戸で漢学を学ぶ。尾州藩を攘夷に導びこうと奔走し、維新後は名古屋明倫堂教授を経て大蔵省官吏に就く。退官後は世事と交渉を絶った。彼が没した明治45(1912)年に日本では明治天皇が崩御し時代は大正に移り、中国では清朝が崩壊しアジアで最初の立憲共和制を掲げた中華民国が誕生している。

 まさに幕末の激動を奔り抜け明治を生き抜き、日中両国共に新たな時代のとば口に立った年に没した日比野は、一生を二生にも三生にも生きたといえるだろう。

 日比野の残した『贅肬録』『没鼻筆語』から彼の上海体験を綴ってみる。

主権を奪われた清国を嘆く

 長崎から上海までの船中でのことである。「コノ邊海賊アリト聞」き及んだ日比野は、腰に日本刀を差し胸に「滿心ノ勇義」を燃やしているのだから「海賊何ゾオソレン」と、同行の「中牟田、林、高杉、名倉、伊藤」らに向って決意を表明する。海賊の襲撃を想定し、甲板上の大砲は誰が操作し、持参した20丁の小銃は誰が持つか。誰が弾丸・火薬を管理するのか。相談を重ねた。

 幸いにも海賊に襲撃されることなく千歳丸は待望の上海への入港を果たす。先ずは峯、納富などと同じように繁華な上海に驚く。入船手続きをしていると、商人らしきがやって来て「儞送東洋蛋糕。我吃」と書いた紙片を差し出す。東洋蛋糕(カステラ)を呉れというのだろう。そこで日比野は「猶有餘屑。再來與之(再訪の折に余りがあれば進ぜよう)」と応える。じつは彼は「辭不敬ニシテ卑劣極マル」ような商人ではなく、知識人から上海事情を聴き取りたかったのだ。

 やがて「唐船頻リニ我ガ船ニ近ヨリ、我輩ノ頭ヲ指轉シ絶倒ス。余彼ヲ看ルニ、頭ニ數尺ノ尾ヲタレ、ソノ姿容實ニ抱腹ニ堪ヘズ。彼此相笑フ、ソノ愚ナルヲ擧ゲン」といった光景が展開される。千歳丸に近寄って来ては船の上から、日比野の頭を指して笑い転げている。そういうヤツラの頭を見れば、何と「數尺ノ尾ヲタレ」ているではないか。彼らは日比野の丁髷を笑い、日比野は彼らの弁髪を奇とする。かくて「實ニ風俗ノシカラシムルコト、ソノ笑ヒイヅレヲヨシト定メ難シ」と記す。文化とは《生き方》《生きる形》《生きる姿》である。ならば丁髷と弁髪の間に優劣はつけ難いということだろう。

 丁髷であれ弁髪であれ、相手には奇妙に見えたとしても、それが「風俗」であるからには、優劣をつけるわけにはいかない。これを今風に表現するなら文化の相対主義とでもいえるだろう。だが外見はともあれ内面、つまり人々の振る舞いから、日比野は上海における「風俗ノ亂レタル一端ヲ知ルニ足ル」ことに気づかされる。

 中国式の木造小型船の「杉船」が沈没して船主が水中に落ちた時など5、6艘が救援に駆けつけるようにみえるが、じつは人命救助はそっちのけ。バラバラに壊れた船の板切れを我先に争って取り合う。それを売って小銭を稼ごうというのだろう。日本人が誤ってタバコ袋を水中に落したら、「馳セ來リ奪ヒ去ル」。何とも浅ましく「實ニニクムベキナリ」。確かに洋の東西を問わず港街の気風は荒っぽく刹那的で「至ツテ輕薄ナレドモ」、日比野は上海は限度を超えていると感じた。

 街を歩く。「土人」が十重二十重と取り囲み、日比野らの歩みに合わせ動き、一挙手一投足を注視する。店に入るわけにもいかず、ただ看板を眺めるしかない。彼は数千人に取り囲まれているが、「婦女甚ダ少シ」。100人中に5,6人の割合で乞食女や5,6歳の少女がいるが、それでも女子は「男子ノ十分ノ一ナシ」。「樓上或ハ戸隙ヨリ反面ヲ出シ窺」う女性が見受けられるところから、上海では女子が圧倒的に少ないわけはなさそうだ。そこで日比野は、乱れに乱れる清国だが「男女ノ別」という聖人の教えは遵守されていると感心頻りであった。

 新聞を読む。難民の増加によって太平天国軍の上海接近を知ったフランス軍が討伐に向かった。そこで日比野は、何故に清国軍が討伐に出陣しないのかと「大イニ嘆息」し、なぜ自国内の「賊」の討伐を西洋人に委ねるのかと憤る。それだけではない。清国の「奸商」が寧波辺りで「賊」に武器弾薬を売って大儲けしたというのだ。この情報を得た「西洋ノ兵」が探索に向い「奸商ノ船一艘」を確保し船内を捜索すると、大量の武器弾薬に加え2人の西洋人が発見された。そこで上海まで曳航し、英国領事館で尋問することになったと伝える。

 かくて「何故ニ清國ノ官吏イタリ訊究セザルヤ。嗚呼々々」と綴り、自国内での外国人の逮捕・捜査権を行使できずに実質的に主権を奪われた清国を嘆く。今日の清国を断じて明日の日本にすべからず。こう、日比野は決意したに違いない。


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