幕末の若きサムライが見た中国

2018年6月20日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

文久2(1862)年、高杉晋作ら幕末の若者は幕府が派遣した千歳丸に乗り込み、激浪の玄界灘を渡って上海に向った。上海の街で高杉らは自分たちが書物で学んだ中国とは異なる“リアルな中国”に驚き、好奇心の赴くままに街を「徘徊」し、あるいは老若問わず文人や役人などと積極的に交流を重ね、貪欲なまでに見聞を広めていった。

明治維新から数えて1世紀半余が過ぎた。あの時代の若者たちの上海体験が、幕末から明治維新への激動期の日本を取り巻く国際情勢を理解する上で参考になるかもしれない。それはまた、高杉たちの時代から150年余が過ぎた現在、衰亡一途だった当時とは一変して大国化への道を驀進する中国と日本との関係を考えるうえでヒントになろうかとも思う。(⇒前回から読む

iStock.com/Yue_

事勿れ主義の幕府役人との温度差

 じつは名倉は『海外日録』とは別に、「日録ニ載セサルモノ」と断わって「唐人」や「同行諸士ニ聞ク所」を箇条書きにした『支那見聞録』を残している。内容から判断し、上海での日々の心覚えとしてのメモであり、一部は『海外日録』の資料になったものと思われる。そこで「日録ニ載セサルモノ」を中心に、名倉の上海体験をもう少し追ってみたい。

 『海外日録』を読んで浮かぶナゾの1つが、名倉が清国役人などと自由に往来し筆談を交わしていたことだった。誰か紹介者でもいたのかと思ったが、そうでもなさそうだ。いわば無手勝流で相手の懐に飛び込んだようだ。

 名倉によれば、清国の「官員」は位階の上下に拘わらず気軽に日本人に応対してくれる。だから飛び込みで「官員ノ家ヲ訪ヘトモ」、気安く筆談に応じてくれた。これは極めて寛大なる「支那ノ風」と思われる。「唐人」は西洋人より「吾輩ヲ親シム」と感じた名倉であるからこそ、虚心坦懐に相手の懐に飛び込んで行く術を心得ていたのだろう。だが、あるいは清国役人たちは名倉を文明の劣る「化外の国」から遥々と千歳丸でやって来た珍奇な若者と見做し、酒食でもてなし適当にあしらっておけばいいとでも考えていた。いや、そうではなく、異国の若者の立ち居振る舞いに加え筆談でみせる深い教養に感服したのかもしれない。ともあれ名倉は、清国役人の対応ぶりを「支那ノ風ニテ至テ寛大ナル習ト見ヘタリ」と、極めて好意的に受け止めている。

 名倉は「唐人ヲ看ㇽニ武者アルモノ少シ」と綴った。「唐人」は文弱の徒というのが千歳丸一行の共通認識だったようだ。だが「只許多ノ戦場ヲ経歴シ来ル者ハ自然殺気アリテ頗ル武骨ヲソナヘリ」。つまり「唐人」であろうが実際の戦場で命の遣り取りを重ね、血の海を泳ぎ切った者は自ずから「殺気」を漂わせていると感じた。

 ともかくも上海を攻撃中の太平天国軍の実態を知りたかった。そこで名倉は「同行ノ士ト密語」し、戦争の情況を探索するためには「廣ク唐人ト交」る必要があるだけではなく、可能なら「(太平天国軍の)軍営ニ至リ賊将」と話をすべきと考えた。だが幕府役人のお供という日常業務が重なる一方、太平天国軍が駐屯する前線基地までは遠い。だから思うに任せない。ならば、いっそのこと天津に北上し、あるいは広東まで南下し、探索したらどうだろうと語り合いつつ「他事ニ及ヘリ」と。はたして「密語」した「同行ノ士」は高杉晋作だったろうか。「他事」とは何だったのか。興味は尽きないが、彼らの「密語」を万事こと勿れ主義の幕府役人が察したとしたら、上海以外の諸港を廻って帰国するという当初計画を反故にして上海から帰国したのも頷ける。

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