定年バックパッカー海外放浪記

2018年11月18日

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高野凌 (たかの りょう)

定年バックパッカー

1953年生まれの62歳。横浜生まれ、神奈川県出身。大学卒業後は商社、メーカー勤務を経て2013年定年退職。2014年春から海外放浪生活を始める。放浪歴は地中海、韓国、インドシナ半島、インドネシア、サンチアゴ巡礼など。サラリーマン時代は主として海外業務に従事。ニューヨーク、テヘラン、北京にて海外駐在を経験。身長170センチ、57キロ。獅子座。A型。現在2人のご子息は独立し、夫人との2人暮らし。孫1人。

(2017.11.4~2018.1.10) 68日間 総費用33万9000円〈航空券含む〉)

「移民政策は採りません」という政府見解は日本の国是?

ビクトリア州議事堂。1901年オーストラリア連邦成立後から1926年までは連邦議会の議事堂であった

 臨時国会の政策論争の焦点は外国人労働者受け入れ拡大に関する入管法改正のようだが、どうも遅きに失した感があるように思われてならない。世界各地をバックパッカーとして歩いていると日本の法制度が現実に追い付いていないのではないかと痛感することが多々ある。

 労働力不足を補完するために外国人労働者を受け入れる制度を法制化するのが焦眉の急であることは当然であるが、与野党ともに将来の日本の少子高齢化、人口減少を見据えた「移民政策の是非」について真正面からの国会討論を避けており隔靴掻痒の感を覚えるが如何であろうか。

移民政策が国家運営の根幹

 オーストラリアを自転車旅行して理解できたことが一つある。オーストラリアは19世紀半ばに英国植民地として開拓され、さらに1901年英領オーストラリア連邦として成立したが、過去約150年のあいだ一貫して「移民政策」が国家運営の根幹であったことである。

 今からわずか50数年前に中学校の地理の時間にオーストラリアは「白豪主義国家」であると習った。当時は実質的には英国及び欧州からの白人移民のみに門戸を開いていたのである。現在オーストラリアは「多文化共生により豊かな社会をつくる」という移民政策が国是となっている。自転車旅で知り合ったオージーは口を揃えて多文化主義・多文化共生社会を賛美していた。

 外国から移民を受け入れて人口増加により経済成長を持続するという基本政策は不変であるが、どのような移民を受け入れるか(国籍・人種・職業・学歴等々)、どれだけの移民を受け入れるか(移民受入枠)は国際環境と国益を睨んで慎重に変更してきた。

2018年8月8日「祝・人口2500万人突破」

 本編第2回(2018年9月13日)にて紹介したように第2次世界大戦終了後人口700万人程度であったオーストラリアは広大な国土の国防及び経済発展のために積極的移民政策を策定した。そして約70年かけて今年8月に人口2500万人を達成した。

 1981年には約1500万人、2004年に約2000万人と着々と増加。オーストラリアの合計特殊出生率は2.0と先進国の中では高い水準であるが、自然増だけでは横ばい、あるいは微増しか期待できない。やはり人口増の主要因は毎年15万人~25万人という高水準かつ継続的移民である。

英国人植民地に漂着した「イタリア人移住者の物語」

ニューイタリーの開拓当時に使用された馬車

 11月23日。ゴールドコーストを目指してパシフィックハイウェイを北上していた。ハイウェイとはいえこの付近では大型車がやっと対面通行できる田舎の公道である。小さな村落に「ニュー・イタリー・ミュージアム」と看板が出ていた。

 無料なので休憩がてら見物。村の歴史が展示されていた。このニューイタリー村はイタリア東北部のベネト地方出身の約200人の移民により1881から開拓が始まったとのこと。展示説明によると、ベネト地方はベネチアの後背地に位置して独自の文化・言語を持っていた。ところが1861年にイタリア王国が成立し、1866年にベネチアがイタリアに併合されると、ベネト地方はイタリア王国の支配下となり政治的自由を失い重税に苦しむこととなった。

 困窮した一部の人々は自由を求めて南太平洋の新天地、ヌーベル・フランスを目指すことになった。最終的に数百人が家族単位で移民船に乗り込んだ。しかし稀代のペテン師が募集した移民計画は杜撰そのもの。現在のニューギニア辺りで植民計画に実態がないことが判明。その後、食糧不足による飢餓と疫病さらには嵐に遭遇。最終的に当時英国植民地であったオーストラリアのニューサウスウェールズに漂着したのは約200人であった。

イタリア人難民受入れ絶対反対!

 この時代、英国植民地として「人種的に均質な英国社会」(racially homogeneous British society)を建設することが移民政策の根本的優先課題(firmly rooted preference)であったとの解説。時の植民地社会では「英語も話せず英国的道徳・価値観を持たないベネト出身イタリア人という異質な闖入者の上陸を拒否すべき」という意見が圧倒的であったという。

 これに対して自治植民地のリーダーは熟考の末「条件付き植民許可」を提案して漂着した凡そ200人のベネト出身者に条件遵守を誓約させた。その条件とは、英語の習得、英国市民社会のルール順守、大英帝国への忠誠であった。このため漂着者には一定期間英国出身植民者の下で働くことを義務付けた。

 その後、現在のニューイタリー地域への自由植民を許可された。漂着してから33年後に勃発した第一次世界大戦にはニューイタリーの大半の若者は志願兵として欧州戦線に赴き大英帝国への忠誠心を表明した。戦死した十数人のイタリア系若者の写真が飾られていた。

 このニューイタリーのエピソードからオーストラリアの移民政策で1960年代まで連綿と受け継がれた確固とした英国市民優先主義の背景がみえてきた。

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