定年バックパッカー海外放浪記

2018年9月23日

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高野凌 (たかの りょう)

定年バックパッカー

1953年生まれの62歳。横浜生まれ、神奈川県出身。大学卒業後は商社、メーカー勤務を経て2013年定年退職。2014年春から海外放浪生活を始める。放浪歴は地中海、韓国、インドシナ半島、インドネシア、サンチアゴ巡礼など。サラリーマン時代は主として海外業務に従事。ニューヨーク、テヘラン、北京にて海外駐在を経験。身長170センチ、57キロ。獅子座。A型。現在2人のご子息は独立し、夫人との2人暮らし。孫1人。

(2017.11.4~2018.1.10) 68日間 総費用33万9000円〈航空券含む〉)

小さな町の戦没者慰霊碑

海岸の公園に建てられたストックトンの戦没者慰霊碑

 11月8日。シドニーから約150キロ北のニューキャッスル市からフェリーで対岸に渡り1時間走ると、ストックトンという人口4200人の風光明媚なのどかな海辺の町があった。

 海辺の公園に銃を肩にかけた兵隊の銅像が立っていた。当初第一次世界大戦への地元の出征兵士と戦没者を称えるために建設されたようだ。その後の相次ぐ戦争・戦役・紛争の都度記述が追加されていったことが碑文から読み取れる。

 第一次大戦については「ストックトンから出征し、オーストラリアと大英帝国の名誉(honour)と統合(integrity)と正義(justice)のために従軍した勇者の偉業を称えるために建てられた」と刻まれている。この小さな田舎町から100人近くの若者が欧州の戦場に赴いたようだ。

 第二次大戦では命を捧げた兵士として26人の氏名が刻まれていた。さらに第二次大戦以降もコリア(朝鮮戦争)に38人が出征、マラヤ(マレーシア独立戦争)には70人が出征、そしてベトナム戦争にはこの小さな町から105人も出征している。さらにティモール紛争、アフガン戦争、イラク(湾岸戦争)にもストックトンから兵士が出征している。

ストックトンの慰霊碑の台座の四面にはそれぞれの戦争の従軍者・戦没者の名簿が刻まれている。ベトナム戦争従軍者を記した碑文には「名誉ある軍籍」というタイトルの下におおよそ100人の氏名が

 巨大な島国であるオーストラリアの安全保障からおよそ無縁と思われる海外の遠隔地の戦争になぜオーストラリアは兵士を送ってきたのであろうか。そんな疑問が湧いてきた。私自身はオーストラリアといえば、自然豊かな平和国家というイメージを抱いていたので大きな違和感を覚えた。

 過去30年の間に出張でシドニーやメルボルンに何度か滞在したが、オーストラリアがかくも頻繁に海外の戦争に兵士を派遣してきたことは全く知らなかった。おそらく日本人の大半は過去70年のオーストラリアの海外派兵の事実を知らないのではないか。

ボーア戦争から湾岸戦争、そしてPKFと海外派兵は連綿と続く

 11月9日。東海岸の景勝地カルーアの河畔の公園でキャンプ。公園の高台の戦没者記念碑にはやはり第一次世界大戦で犠牲になった24人の氏名が刻まれていた。さらに朝鮮戦争、マラヤ独立戦争、ベトナム戦争、ニューギニア、インドネシア、アフガン、第一次・第二次湾岸戦争へカルーアから出征している。さらに現在でもPKF(国連平和維持活動)にカルーア出身者が貢献している。

 11月17日。マックスビルでは記念碑によると大英帝国が南アフリカ地域の権益のために戦ったボーア戦争(1880年~1902年)からアフガン戦争まで出征していた。その後も行く先々で無数の戦没者慰霊碑を見かけた。

英国系移民のプライド

 11月21日 大河クラレンスの河畔の人口400人足らずのウルマーラという町の公園で地元のイアン氏とおしゃべり。ウルマーラは1800年初頭に入植開始した由緒ある土地柄だ。当時はクラレンス川の交通の要衝として栄えたという。現在でも当時を偲ばせるコロニアル様式建築のホテルが営業している。

 イアンは50歳前後であり、スティーブ・マックウィーンの晩年を彷彿させる精悍な風貌をしていた。イアンの祖先は19世紀初頭に微罪により流刑囚としてオーストラリアに送られてきた。その後市民権を与えられ自由開拓民としてウルマーラに入植。イアンによると流刑囚が流刑植民地で市民権を得るためにルールを守り必死で働いたことが、現在のオージーにも伝統的価値観として受け継がれているという。

 ブラジルの日系社会の人々は現代日本の平均的日本人よりも『伝統的な日本人的価値観』を大事にしていると聞いたことがあるが、オージーも伝統的英国市民社会の価値観を継承したのであろう。

なぜ地理的に疎遠な第一次世界大戦へ参戦したのか?

 イアンになぜ第一次世界大戦にオーストラリアは参戦したのか聞くと、「当然じゃないか。当時のオーストラリア国民の90%以上は英国移民だ。そしてオーストラリアは大英帝国連邦のメンバーだった。当時からオーストラリアは英国式議会制民主主義を踏襲して民主主義的価値観を共有していた。ましてや親兄弟、親戚、友人が戦争しているのに傍観できるわけない。だからオーストラリアの各地から若者が勇んで欧州戦線に赴いたんだ。当時の国民には栄光の大英帝国連邦(glorious British Commonwealth)の一員であることが誇りだったんだよ」と胸を張った。

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