「安全」さえ確保できれば、人々の「安心」が得られるわけではない。
福島第一原発の事故後、国は1年間の放射線量が20ミリシーベルトを超えるかどうかを目安に避難等を促してきた。日本は平常時の一般公衆の線量限度を年間1ミリシーベルトに定めていたため、事故により20ミリシーベルトまで基準を「緩和」したという報道がなされ、一般の人たちは不安に陥った。
4月19日には、文部科学省が福島県の校舎・校庭の利用判断について、暫定的な考え方として年間20ミリシーベルト、校庭・園庭では毎時3.8マイクロシーベルトという基準を示した。これに対して、29日には内閣官房参与を務めていた小佐古敏荘・東大教授が「年間1ミリシーベルトで管理すべきだ」と涙ながらに抗議し、辞任。その後文科省は年間1ミリシーベルト以下を目標とすることを発表した。
武田邦彦・中部大学教授をはじめ、「人間が放射線に対して防御力が急に高くなるわけではありません」と、20ミリシーベルトへの基準「緩和」を非難する人たちがいる一方で、喫煙や高塩分の食生活などと比較しながら、100ミリシーベルト以下の放射線被ばくのリスクは科学的に無視できる小ささだ、と主張する人たちもいる。
20ミリシーベルトを基準とする考え方は、国際放射線防護委員会(ICRP)に基づいている。ICRPは、20~100ミリシーベルトの範囲で被ばく低減に努め、その後の復旧期(現存被ばく)には年間1~20ミリシーベルトの範囲で低減努力をし、最終的には自然放射線量並みの年間1ミリシーベルト以下に近づけるよう勧告している。はじめから1ミリシーベルト以下を目安にしてしまうと、無理な移住など放射線のリスク以外(以上)のリスクを招くこととなり、国が避難等促す基準としては、「20ミリシーベルト」を目安としていた。
残念なことに、ICRPの考え方が一般の人たちに伝わっているようには思えない。伝わったとしても、理解して納得できるかどうかは疑問である。
9月27日には、国が除染を行う地域を年間5ミリシーベルト以上とする方針を環境省が固めたことが発表された。1か、5か、それとも20なのか。一般の人たちはますます混乱する。
幅のある「リスク」の概念を説明することも理解することも、非常に難しい。しかし、事故が起きてしまった今、私たち日本人のリスクとの向き合い方が問われている。事故後、どのようなボタンの掛け違いで混乱が起きてしまったのか。リスクの考え方を受け入れる難しさやプロセスを、社会心理学の観点から研究している専門家に、事故の経緯を踏まえながら、今後の対策について聞いた。
――福島原発事故直後の報道では、放射線のリスクはどのように伝えられていたのでしょうか。また、ICRPのリスクの考え方は一般市民に受け入れられなかったと見てよろしいでしょうか。
中谷内一也教授(以下中谷内教授):事故直後からしばらくは、放射線の「リスク」について、ある程度定量的な観点から情報が発信されていると感じていました。しかし、徐々に農作物や水道水などから放射性物質が「検出されたかどうか」「基準を上回っているかどうか」という「ゼロか否か」の二元論にとどまってきてしまっています。
今回のように、否応なしにリスクにさらされることによって、一般の人たちがリスクの考え方を理解し、評価し、より低いリスクを選択するようになるかと思いましたが、結局は「危険か安全か」という思考から抜け出せていない。定量的に考えてリスクを評価する、という考え方はなかなか受け入れられないのでは、と残念に思います。
しかし、確かに今回の事故は、電力も得られなければ被ばくの危険もある、というようにリスクだけを受け入れなければならない状況であったため、一般市民が拒否感を募らせたのも仕方がない部分もあると感じます。普通は、リスクを背負う代わりにベネフィットを得られる――飛行機や自動車で遠くまで早く移動する代わりに事故のリスクを背負う、アルコールで気分が良くなる代わりに健康を害したり二日酔いのリスクを背負う、など――けれども、今回の事故はリスクだけが目の前にあって、たとえこれが低かったとしても受け入れられないのは当然のことでしょう。