2024年12月22日(日)

経済の常識 VS 政策の非常識

2011年10月13日

 東日本大震災からの復興策として、漁業権を民間企業に開放することが提案され、賛否を巡って議論が盛り上がっていたが(本年5月上旬の新聞各紙参照)、今は下火になったようだ。漁業権の開放は、宮城県知事が提唱したことだが、私には(おそらく本論の読者の方もだと思うが)、報道を読んでも何が問題なのかが分からなかった。

 漁業権とは、沿岸地域で魚介類を獲ったり、養殖をしたりする権利である。この権利は、一般に地元の漁業者、またはその組合に独占的に与えられ、他のものがこれを得ることは難しい。また、農地と異なり、漁業権の転売はできない。埋め立てなどで漁業権を放棄するのは、漁業権の転売ではなくて補償と理解される。この権利について様々な議論があるだろうが、この権利がなければ、沿岸の魚介類を根こそぎ獲って、漁獲資源を枯渇させることが起きるだろう。たまたま地元の漁民だけにその権利を与えることは不合理かもしれない。しかし、だからと言って外部の大資本に与えることが合理的なわけでもない。

 ここで、2つのことを区分する必要がある。誰が権利を持つべきかということと、誰が持っていればその権利をもっとも効率的に使えるかということである。効率性の観点から整理されていないことによって、漁業権を巡る議論が、まったく理解できないものになっていたと思う。

所有権の移転が産業革命を導いた

 イギリスの土地は、フランスノルマンディー地方からの征服者によって所有されていた。征服者は、領主となり、その土地を粗放な農業や牧畜に使っていた。ところが、その後、勤勉なヨーマン(独立自営農民)やジェントリ(郷紳)が現れて、領主の土地を買い集めていった。領主は、粗放な農業を行ってもいくらも利益にならないので、高く土地を買ってくれる人々に農地を売ったのである。その結果、イギリスの農地は、その土地で最大限の収穫を上げられる人々の手に集まり、産業革命の前段として、農業生産力の急上昇が起こった。

 このことから期首に誰が所有者であるかよりも、生産性の高い所有者に譲渡されることが重要とされ、この教訓はソ連など旧社会主義諸国で国営資産の民営化においても援用された。国営企業の払い下げには、多くの不正があっただろうが、大した問題ではないと西側の多くのエコノミストは考えた。

 しかし、私は大したことだと思う。封建時代であれば、征服者の土地の占有は正当な権利で仕方のないことだと庶民は諦めただろうが、民主主義の現在では異なる。金持ちはどさくさまぎれに富を得た連中であると一般の人々が思っていれば、富は尊敬されない。富は努力と工夫によって創造するものだと人々が認識しなければ、富は収奪したり、没収したりできるものだと人々は考えるようになるだろう。それは社会を不安定にして、経済効率を引き下げる。富の正当性が認知されることが、長期的には経済発展のために重要だと私は考える。

 日本の漁業権を考えるにあたっても、まず、期首の所有権の設定について正当性が認知される必要がある。その意味で、旧来の漁業者や漁協が独占していることが絶対に正しいのかと疑問を持つのは良い。しかし、日本はそこで議論が止まっている。イギリスの土地は、もっとも有効に使える人に集まったことで、生産性が高まった。漁業権も、その権利を効率的にする、すなわち、永続的に漁獲量を最大にするための権利譲渡の仕組みが必要になるだろう。

農地は売れるが漁業権ではできぬ謎

 農業の土地の場合には、民間企業の参入を許すべき理由は明白である。その土地をもっとも有効に利用できる主体に渡すことが、農業全体の所得を最大にすることである。もっとも有効に利用できる主体は、もっとも高い値段でその土地を買える主体である。そのような主体が農民でなければならず、企業であってはいけないと規制すれば、当然に効率を阻害する。


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