第一次世界大戦の引き金となったサラエボ事件の舞台
サラエボで投宿したホステルの名称は何と「フランツ・フェルディナンド ホステル」。
1914年のサラエボ事件で暗殺されたオーストラリア・ハンガリー帝国の皇位継承第一位(crown prince)フェルディナンド皇太子の名前だ。
ホステルの壁や天井は一面に暗殺された皇太子フランツと皇太子妃ゾフィー、そして皇帝一族の写真やサラエボ事件のニュース写真などで覆われている。ホステルは暗殺現場から数分の裏通りである。
ベッドに寝転んでドミトリーの天井一杯に貼られているフェルディナンドの巨大な肖像写真を眺めていると100年以上前の世紀の大事件の臨場感に包まれた。
メルボルン生まれのボスニア青年の嘆き
ホステルで同室になったジェミーは白人系のフツウの青年であった。しかし話を聞いて驚いた。イスラム教徒の彼の一家はボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争当時にボスニア難民としてオーストラリアに移住。彼はメルボルンで生まれ、現在はメルボルン大学で数学を専攻している。
歴史的にボスニア・ヘルツェゴヴィナには三つの民族が暮らしていた。同じセルビア系人種であり言語・文化は同一である。イスラム教徒のボシュヤニク人(=ボスニア人)、正教徒のセルビア人、カトリック教徒のクロアチア人である。
この三つの民族が独立の主導権を巡り対立。そこに旧ユーゴスラビア軍(のちにセルビア共和国軍)が介入してセルビア人勢力を支援したため紛争が長期化。
ジェミーは今回生まれて初めてボスニア・ヘルツェゴヴィナを訪れ、両親の故郷であるサラエボ近郊の親戚の家に逗留。故郷を訪問してジェミーが見てきたのは、戦闘行為が終結して20年以上経過した現在でも住民間の敵対感情は消え難く民族間の和解には程遠いという厳しい現実であった。
サラエボ事件の暗殺犯は英雄なのか狂信者なのか
3月21日。前夜からの吹雪で午前中は観光を断念。ホステルのロビーで受付とガイド兼任のアレン31歳とおしゃべり。3月21日はサラエボの春の祭日(最初の春の日)とのこと。
イスラム教徒のボスニア人(=ボシュヤニク人)であるアレンは政治意識が高い。アレンからボスニア人から見たバルカン半島の近現代史を拝聴。
オーストラリア・ハンガリー帝国の皇太子を暗殺したサラエボ事件の実行犯であるガブリロ・プリンチップ(Gavrilo Princip)はセルビア人にとっては国民的英雄(national hero)だが、ボスニアでは狂信的犯罪者と見做されているという。
ガブリロ・プリンチップはサラエボで生まれ育った。セルビア正教徒のセルビア人である彼の一家はイスラム教徒の大地主の下で働く貧農であった。こうした家庭環境から成長すると汎スラブ主義に傾倒して、セルビアの首都ベオグラードに渡り過激な政治運動に身を投じたという。
ガブリロ・プリンチップは暗殺実行時点で19歳であったので死刑を免れたが、4年後の1918年に第一次世界大戦の終結を見ずにオーストラリア・ハンガリー帝国の刑務所で病死した。大戦後に彼の墓はセルビア人の人々によって英雄の眠る聖地となったという。
大国ロシアが影を落とすバルカン半島の歴史
第一次世界大戦以前、ロシアはオスマントルコと敵対してバルカン半島の勢力拡大を狙っていた。そのためロシアは汎スラブ主義(Pan-Slavism)の大義を掲げてセルビア人を支援。
オーストリア・ハンガリー帝国はセルビア人をロシアの手先として警戒。このような地政学的背景から皇太子フェルディナンド・フランツはボスニア人の権利を擁護して守護する政策を取った。現在でもサラエボでは皇太子は人々に慕われているという。
セルビア人はボスニア人(ボシュヤニク人)の言語・文化を抹殺
第一次世界大戦でもロシアとセルビアへ対抗するためにボスニア人はドイツ・オーストリア側について参戦。
しかし敗戦でオーストリア・ハンガリー帝国が崩壊。戦後処理では戦勝国ロシアの後押しを受けたセルビア人勢力が建国したセルビア・クロアチア・スロベニア王国にボスニア・ヘルツェゴビナは併合された。
アレンによると、この時代セルビア人支配者はボシュヤニク人(イスラム教徒のボスニア人)を徹底的に弾圧。ボスニアの独自の言語表記を禁止し、民族的由来の名前の使用を禁止した。セルビア人支配下ではさらに職業も制限されて百姓、大工、石工、そして音楽・ダンス等の芸人という最下層の仕事のみが許されたという。